「大日本帝国憲法」はドイツの真似ではない!?欧米の政治制度からの脱却を試みた伊藤博文たち【前編】:3ページ目
「いいとこどり」でツギハギ状態
強大な君主権と軍事力を背景に統一を実現したドイツ帝国が、日本の近代国家建設のお手本の一つになったのは当然です。
実際、岩倉具視使節団はヨーロッパを歴訪してビスマルクとも面会し、レセプションでの演説などを詳細に記録しています。
しかし、だからと言って「当時の日本の政治制度はみなドイツを見習ったのだ」と考えるのは誤りです。
当時の岩倉具視使節団は、ドイツに限らず欧米諸国は日本よりも優れているという観点から、大国のみならず小国からも雑多にさまざまな情報を取り入れていました。
しかしあれもこれも取り入れたせいで、政治制度改革は迷走といっていいほどの試行錯誤を繰り返したのです。
例えば昔の太政官制を復活させてみたり、アメリカ合衆国を手本とした政体書を出して三権分立の制度を作ろうとしたり、フランスの警察制度を採用しようとしたり、地方行政の制度はドイツを模範にしようとしたり……といった具合です。
当時の日本で考えられていた政治体制は、欧米諸国からの「いいとこどり」を図った末のツギハギだらけのものだったのです。
では、実際に憲法が成立するまでの流れで、ヨーロッパの政治制度は具体的にどのような影響を与えたのでしょうか。それは【後編】で見ていきましょう。
【後編】の記事はこちら↓
大日本帝国憲法は「ドイツの真似」ではない?欧米の政治制度からの脱却を試みた伊藤博文たち【後編】
伊藤博文の訪欧明治時代、日本は新しい政治体制のあり方を模索して、欧米諸国の諸制度をなんでもかんでも取り入れようとしました。その結果ツギハギだらけの状態になったことは【前編】で説明した通りです。…
参考資料:浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社