大日本帝国憲法は「ドイツの真似」ではない?欧米の政治制度からの脱却を試みた伊藤博文たち【後編】
伊藤博文の訪欧
明治時代、日本は新しい政治体制のあり方を模索して、欧米諸国の諸制度をなんでもかんでも取り入れようとしました。その結果ツギハギだらけの状態になったことは【前編】で説明した通りです。
「大日本帝国憲法」はドイツの真似ではない!?欧米の政治制度からの脱却を試みた伊藤博文たち【前編】
まとまりを欠いていたドイツ今回は明治時代に作られた大日本帝国憲法が成立するまでの経緯と、それにまつわる誤解について解説します。かつての日本史の教科書には、「大日本帝国憲法は君主権の強いドイ…
しかし明治政府も、やがて日本にマッチした着地点を探していくようになります。また、条約改正の失敗や自由民権運動の高まりもあって、近代的な政治制度の確立を急ぐようになったのです。
伊藤博文がヨーロッパへ憲法の研究に出かけたのには、こうした事情もありました。
伊藤はドイツで法学者グナイストを訪ねて、ベルリン大学で法律と政治制度の教えを受けました。また、同行した井上毅はドイツの政治制度に感心し、伊藤にドイツ型の改革を強く勧めるようになります。
ところで伊藤は皇帝ヴィルヘルム1世に謁見したとき、皇帝のおもしろい呟きを耳にしました。「憲法などつくらなければよかった。おかげで何も自由にできなくなった」というのです。
この呟きから、憲法は行政が守るべき規範であり、それはつまり行政権を制限するものであると伊藤は理解しました。