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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 「どうする家康」何が三成を変えてしまった?その最期にネット号泣…第43回放送「関ヶ原の戦い」振り返り

「どうする家康」何が三成を変えてしまった?その最期にネット号泣…第43回放送「関ヶ原の戦い」振り返り:3ページ目

島津の銃撃で負傷した井伊直政

劇中でちょっとだけ描写されていましたが、島津義弘が戦場から離脱する際、東軍の真正面へ突撃する場面がありました。

普通、逃げる時は少しでも敵から遠ざかろうとするものですが、まさに窮鼠猫を噛むですね。

これは後世「島津の退口(のきぐち)」と呼ばれ、島津勢の恐ろしさを改めて天下に知らしめました。

千五百 VS 十万?薩摩武士の精強さを天下に知らしめた、関ヶ原の戦い「島津の退き口」

気づけば終わっていた「関ヶ原」「天下分け目の決戦」として知られる関ヶ原の戦い。徳川家康と石田三成が多くの大名を動員、東西両軍に分かれて激闘を繰り広げましたが、その中でも異彩を放った島津軍(…

井伊直政(板垣李光人)は死に物狂いの島津勢を深追いした時、銃撃を受けてしまいました。

直政はこの時の負傷が原因で、2年後の慶長7年(1602年)に亡くなります。

……井伊兵部少輔直政も鉄砲疵を蒙り靭に手をかけ。忠吉朝臣に附そひ参り忠吉朝臣の勲功の様を聞えあげ。逸物の鷹の子は皆逸物なりと称誉し奉れば。そは上手の鷹匠が志ゝあてよきゆへなりと宣ひ。汝が疵はいかにとて御懸硯をめしよせ。御膏薬を取出して御みづから直政が疵に付給ふ。直政かしこみ奉りていはく。今日某が手よりこのみて軍をはじめしにあらず。全く時分よくなりしゆへ守殿と共に手始せしといへば。いたく御賞美あり。……

※『東照宮御実紀附録』巻十「家康感謝黒田長政」

直政は同じく負傷した松平忠吉(家康四男。福松)ともども、支え合うように参上。

直政が「若君のご活躍ぶり、さすが鷹の子は鷹にございますな」と褒めると、家康は「それはよき鷹匠がついてこそじゃ」と褒め返します。

「しかしひどい怪我ではないか。どれ、診せてみよ」

家康は手ずから膏薬(塗り薬)を取り出し、直政の手当をしてやりました。直政の感激はいかばかりでしょうか。

家康「しかし、もう無理はするなよ」

直政「いえ、それがしから島津を襲ったのではなく、やむなく戦ったまでにございます」

家康「そうかそうか」

そんな一幕があったようです。

4ページ目 小早川秀秋のこと

 

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