【関ヶ原の合戦】死を覚悟した鳥居元忠(音尾琢真)が息子たちに送った遺言がコチラ【どうする家康】

人間、遅かれ早かれ必ず死にます。だから日ごろからそれなりに覚悟してはいるつもりでも、自分自身はいざ知らず、遺された者たちが心配でならないのは人情というもの。

そこで「自分が死んだら、あれをあぁしてこうして……」などと、家族や親しい者たちに遺言するのですが、想いの丈をすべて伝えるのはなかなか大変です。

今回は幼少期から徳川家康に仕え、生涯にわたって忠義を貫き、後世「三河武士の鑑」と讃えられた鳥居元忠の遺言を紹介。

果たして彼は、息子たちに何を言い残したのでしょうか。

伏見城で石田三成らの大軍に包囲された元忠たち

まずは遺言の原文から。出典は『名将言行録』、戦国武将を中心に虚実入り混じった武士たちの逸話集です。

なので史実性については低いものの、今日多くの戦国ファンから愛されている武将たちのイメージはこうした伝承を基に形づくられてきました。

また往時の人々にしても「彼ならばやりかねない」という一定の評価があったからこそ信じたはずですし、ある程度は個々の実像に近いものと考えられるでしょう。

御託はこのくらいにして、さっそく原文を読んでみたいと思います。

……此時元忠家臣濱島無手右衛門をして関東へ、上方蜂起の由を注進す。時に子息忠政に遺誡を申贈る、……

※『名将言行録』巻之五十一 鳥居元忠

【意訳】時は慶長5年(1600年)7月。伏見城に立て籠もっていた元忠は、石田三成ら上方勢が挙兵したことを家康に伝えるため、家臣の濱島無手右衛門(はましま むてゑもん)を関東へ派遣しました。それと同時に、息子の鳥居忠政に遺言を申し送ります。

ちょっと(いや結構かなり)長いので、原文を分割で意訳していきましょう。

5ページ目 敵が何十万で包囲しようと、突破するのは容易いが……

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