手洗いをしっかりしよう!Japaaan

大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 「どうする家康」今までずっと、ありがとう!そして新天地へ…第37回放送「さらば三河家臣団」振り返り

「どうする家康」今までずっと、ありがとう!そして新天地へ…第37回放送「さらば三河家臣団」振り返り

ところで酒井忠次は?

徳川家臣団の卒業式?シーンを見ていると、酒井忠次(大森南朋)の姿が見えないことに気づいた視聴者は少なくなかったと思います。

徳川四天王の筆頭格であり、第1回放送からずっと家康を支え続けた酒井忠次は、この時どこで何をしているのでしょうか。彼は眼病を患っており、天正16年(1588年)には嫡男の酒井家次に家督を譲って隠居。京都で余生を過ごしておりました。またこのころ出家して一智と号したとも伝わります。

では、その酒井家次は「国替え」に際してどれほどの所領を賜わったのでしょうか。

酒井家次(忠次の嫡男)⇒下総国臼井(千葉県佐倉市)3.7万石

あれ?次世代の若輩といえども四天王筆頭格の家柄であれば、10万石以上はもらってもいいのでは……そう思ったのは忠次も同じでした。

「家次の所領ですが、もうちょっと増やしてあげてもらえませんか」

忠次が懇願したところ、家康は冷たく言い放ったとか。

「ふーん、そなたでも我が子は可愛いのか」

これはかつて築山殿事件に際し、忠次が家康の嫡男・松平信康(細田佳央太)を弁護しなかったことを皮肉っているのです。

わしの息子は守ってくれなかったくせに、自分の息子は優遇せよとわしに言うのか……家康はずっと怨み続けていたと言います。

果たしてそれが嘘か真か。家康の死後、酒井家が破格の加増を遂げたことが、一つのヒントと言えるでしょう。

忠次は慶長元年(1596年)に70歳で亡くなりますが、最後に「海老すくい」を披露する機会があるのかどうか、楽しみに見守ろうと思います。

6ページ目 家康、江戸をつくるの巻

 

RELATED 関連する記事