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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 「どうする家康」今までずっと、ありがとう!そして新天地へ…第37回放送「さらば三河家臣団」振り返り

「どうする家康」今までずっと、ありがとう!そして新天地へ…第37回放送「さらば三河家臣団」振り返り

北条氏政・氏直の末路

北条氏政「我らはただ、関東の隅で侵さず侵されず、我らの民と豊かに穏やかに暮らしていたかっただけ……」

本作の設定では亡き瀬名(有村架純)が掲げた「慈愛の国」に従い、非戦の「夢」を貫いていた……と言っている北條氏政。

しかし当時の北条氏は常陸の佐竹氏や安房の里見氏などと激しく争っており、また関東に進出してきた織田家臣・滝川一益らとも衝突していました。

何より本能寺の変直後は空白地帯となった武田旧領を巡って上杉景勝や家康、そして真田昌幸(佐藤浩市)らと分捕り合戦を繰り広げていることは、劇中でも描かれています。

夢や星を見るなとは言いませんが、為政者にはどうか領民や現実を見ていて欲しいものですね。

まぁそんな過去のことは忘れて、滅亡後の北条氏政・北条氏直(西山潤)父子はどうなったのでしょうか。

……小田原にも松田某などいへる腹心の輩。寄手に内通するものも多ければ。いまは孤城守りがたく防戦の手だてをうしなひ。氏政氏直父子はじめ一族家人等皆降をこふをもて。氏政にははらきらせ。氏直をば助けて宗徒の家人をそへ高野山にをしこめぬ。さすが氏直は  君の御むこなれば関白もさのみからくももてなされず。後には大坂によびせよ。西国にて一国をあたへんとありしが。不幸にして氏直痘を病てうせければ北條の正統はこゝに絶ぬ。……

※『東照宮御実紀』巻四 天正十八年「北条氏亡」

北条氏政……天正18年(1590年)7月11日、秀吉の命により切腹。辞世はこちら。

雨雲の おほえる(覆える)月も
胸の霧も はらひにけりな 秋の夕風

【意訳】雨雲に覆われていた月も、胸中の霧も、爽やかな秋風が祓い清めてくれた。もう思い残すことはない。

我身今 消ゆとやいかに おもふへき
空よりきたり 空に帰れば

【意訳】我が身が消えると悲しむことはない。もともと天から来たのを、天へ帰るだけなのだから。

……百年以上にわたる栄華を自分たちの代で費やしてしまった胸中は察するにあまりあるもの。だからこそ、この爽やかな辞世が胸に沁みますね。

北条氏直……家康の助命嘆願によって7月12日、高野山へと追放されました。ひとまず命が助かって何よりです。

翌天正19年(1591年)から赦免運動が行われ、8月19日には1万石を与えられて大名に復帰。別居していたおふう(清乃あさ姫)と再会するも、11月4日に病死してしまいます。

これからやり直しという時に、無念だったことでしょう。

かくして戦国大名としての北条氏は滅亡しましたが、名門の家督は伯父の北条氏規が継承し、その末裔は明治維新を迎えることとなります。

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