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京都の清水寺は征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院だった【後編】

京都の清水寺は征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院だった【後編】:2ページ目

蝦夷征伐で没した人々慰霊の寺院

798年、前年に征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、延鎮と名を改めた賢心と協力し、清水寺本堂の大改修を行います。この時、本尊十一面千手観音菩薩の脇侍として毘沙門天像・地蔵菩薩像を祀ったとされます。

こうした縁起から清水寺では、その創建に関わる行叡居士・延鎮(賢心)・坂上田村麻呂をそれぞれ元祖・開山・本願と位置付けているのです。

この年、田村麻呂が清水寺の伽藍を整えたのは、準備が整い次第実施されるであろう第三次蝦夷征伐に際し、その成功と武運長久を祈願してのことと思われます。

第三次蝦夷征伐は【前編】で述べた通り、田村麻呂率いる朝廷軍の大勝利に終わりました。凱旋を果たした田村麻呂はさらに深く清水寺との関係を構築します。

805年、朝廷から正式に清水寺の寺地が坂上田村麻呂に下賜されたのです。この年といえば、田村麻呂が蝦夷経営を終え帰京し、参議として公卿に列した年でした。

田村麻呂の脳裏に蘇るのは、長い蝦夷との戦いであったのではないでしょうか。特に、朝廷に帰属させようと自ら説得し、投稿させたものの、その願いがかなわず刑死させてしまった阿弓流為(アテルイ)と母禮(モレ)に対する慰霊の念は強かったと思われます。

清水寺は、志半ばで散った阿弓流為と母禮。そして、敵味方を問わず蝦夷征伐で没した多くの人々鎮魂の寺院でもあったのです。

京都を訪れ、清水寺へ参詣の機会がありましたら、このような歴史に思いを馳せていただければと思います。2回にわたりお読みいただきありがとうございました。

◎参考文献

 

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