地味だけれども優れた二代目。北条義時・足利義詮・徳川秀忠の資質とは? 【後編】:2ページ目
室町幕府全盛期の礎を築いた二代目・足利義詮
建武の新政を行う後醍醐天皇を吉野に追い、室町幕府を開いた足利尊氏の嫡男として、二代将軍に就いたのが足利義詮でした。
しかし、義詮はあまりにも地味過ぎて、ほとんどの教科書にその名前すら記されていません。息子の三代将軍義満が、北山文化・勘合貿易・南北朝合一と華やかすぎるほどの功績を記されているのとは正反対の人物です。
では、義詮は何もしなかったのでしょうか。いやいや、それどころか義詮がいたからこそ、室町幕府の礎ができあがったのです。
室町幕府ほどその成立期において不安定な政権はありませんでした。吉野に逃れた後醍醐天皇は南朝を開き、南北朝の戦いが起こります。それに、尊氏の弟直義と尊氏の抗争が絡み、観応の擾乱として全国規模の大内乱に発展していきました。
そんな中、尊氏が戦いで受けた矢傷がもとで死去し、幕府の有力武将である二木氏・細川氏・畠山氏が離反します。義詮自身も南朝に京都を奪われてしまいました。普通なら、ここで室町幕府は終わっていたはずですが、ここから義詮の優れた資質がものを言い出すのです。
義詮が行ったこと、それは将軍独裁の裁判制度、補佐機関の管領の設置など、室町幕府の内政強化と将軍権力の強化でした。その上で、南朝勢力の切り崩しを行い、その結果南朝は徐々に衰退していきます。
戦いに明け暮れた将軍義詮は、38歳でこの世を去ります。おそらくは、志し半ばでの死であったはずです。しかし、その功績は間違いなく、次代に創出される室町幕府の最盛期の礎を築いたものだったのです。