江戸時代の探検家?幕府の隠密?世界地図に名前を残した「間宮林蔵」は一体何者!?:2ページ目
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この事件以降、林蔵は幕府の隠密へと転身。探検で培った知識と行動力で隠密としても活躍しました。
林蔵の隠密活動で明らかになっているのは、薩摩藩の密貿易探索と石見(島根県西部)浜田浜の密輸事件摘発です。61歳の頃薩摩から戻った林蔵は幕府から働きが認められ、二十俵の加増を受けました。
1844(弘化元)年2月26日、林蔵は江戸・深川の住まいで縁者に看取られながら70年の生涯を閉じました。
武士の身分は自分の代のみと考え、後継は置きませんでしたが、幕府は林蔵の生前の忠勤ぶりを高く評価し、ふさわしい人物を選任、跡取りとして間宮家を存続させたのでした。
シーボルト事件の後、後半生を隠密として過ごしたこともあり、同時代の伊能忠敬と比べると若干人気が低い間宮林蔵ですが、彼が偉大な探検家であることは間違いありません。
後に、樺太とアジア大陸の間の海峡が、シーボルトによって「間宮海峡」として世界に広がったのは、歴史の皮肉としか言いようがありません。
参考文献
- 赤羽 榮一『未踏世界の探検者 間宮林蔵』 (2018 清水書院)
- 小谷野敦『間宮林蔵〈隠密説〉の虚実』(1998 教育出版江戸東京ライブラリー)
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