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義足を付けて舞台へ。幕末、日本で初めて義足をつけた歌舞伎役者「澤村田之助」の生涯

義足を付けて舞台へ。幕末、日本で初めて義足をつけた歌舞伎役者「澤村田之助」の生涯:2ページ目

右足を失った澤村田之助は、当初、江戸の人形師・松本喜三郎が作った義足を付けていましたが、上手く機能せず、200両もの大金を払って、アメリカ・セルフォ社製の義足を購入しました。尚、最初の義足を作った喜三郎は、使えなかったことを恥じて料金は受け取らなかったそうです。

役者生命の危機からカムバックした澤村田之助は、自分の手術に携わってくれたヘボンたちのための御礼興行を行いました。そして、足のない状態にもかかわらず名演技を披露したその芝居は「義足芝居」として、拍手喝采であったと言います。

このように日本人のために医療に従事したヘボンは「ヘボンさんでも、草津の湯でも、恋の病はなをりゃせぬ」と歌われるなど、大変愛されました。

その後、澤村田之助の脱疽は悪化の一途をたどり、とうとう左足を切断するほどまでになっていました。ヘボンは帰国中であったため、弟子の南部精一が手術を行いますが、結果的に右の手首から先、さらには左手の小指以外の指を失うことになりました。

そのような状況の中でも、澤村田之助は好演を続け名女形として大成功を収めますが、病気の進行を防ぐことができず、明治5年(1872)の正月、28歳の若さで役者を引退…最後の舞台となった京都南座「国姓爺姿写真鏡(こくせんやすがたのうつしえ)」では、千秋楽を三日前で降板してしまいました。ヘボンの手術を受けて舞台復帰を果たした澤村田之助でも、心身ともにギリギリの状態で舞台に上がっていたのでしょう。

引退後は、裏方に回り澤村座を開きました。一時は舞台復帰も模索していましたが、澤村座の興行成績は芳しくなく、明治11年、二度と舞台に立つことなく33歳でその生涯を閉じました。

一方のヘボンは、幕府の干渉によって施療所を閉鎖させられてしまいますが、明治に入っても日本の医療に大きく貢献しました。また「ヘボン式ローマ字」の考案や日本最初の和英辞書「和英五林集成」、明治学院大学創設等、教育にも尽力し、近代日本の発展にはなくてはならない人物となります。

幕末明治の動乱の中、ヘボンに手術を施された歌舞伎界のスターが日本で初めて義足をつけたことは、その後の日本医学に大きな影響を与えたことは言うまでもないでしょう。

 

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