四国を統一した戦国大名・長宗我部氏と一文字違い「香宗我部氏」とは?苗字の成り立ちも紹介:2ページ目
「おい、紛らわしいから宗我部を名乗るな!」
抗議してきたのは中原秋通(なかはらの あきみち)。養父・中原秋家(あきいえ)から所領の土佐国香美郡宗我部郷(現:高知県香美市)を譲られたため、新たに家を興すべく「宗我部」氏を名乗ったのでした。
※この秋通は甲斐源氏の流れを汲み、実父・一条忠頼(いちじょう ただより)が源頼朝(みなもとの よりとも)に暗殺されたため、父の家臣であった秋家の養子となっていました。
「うるせえ!こっちが先に名乗ったんだぞ!真似するな!」
どっちが先に「宗我部」を名乗ったのかについては諸説ある(例えば、能俊がこっちへ来たのは承久三1221年「承久の乱」後など)ようですが、ともあれこのままでは紛らわしいことこの上ありません。
結局お互い「宗我部」は譲らなかったようで、仕方なくそれぞれの「郡名」から一文字とって頭につけることにします。
能俊は長岡郡から「長」の字をつけた長宗我部(ちょうそがべ)、秋通は香美郡から「香」の字をつけた香宗我部(こうそかべ)と名乗るようになったのでした。
ちなみに、長宗我部は現在「ちょうそかべ」と読むことが多いですが、戦国時代の文献を調べると「チヤウスカメ(興福寺『多聞院日記』)」「Chosugami(ちょうすがみ。ルイス・フロイス『日本史』)」と書かれており、これらを合わせると「ちょうすがめ」と呼ばれていた可能性が考えられます。
一方の香宗我部氏も「こうすがめ」と名乗っていたのか、あるいは文字が似ているので差別化するために「こうそかべ」「ちょうすがめ」と名乗ったのかも知れません。
かくして並び立っていた両家ですが、戦国時代に入ると長宗我部元親の弟・親泰が香宗我部家の養子となったことで長宗我部氏の傘下に入り、元親の片腕として大いに活躍することになります。