家康にも臆さない。勇猛果敢な真田信繁(幸村)は本当は物静かな武将だった
真田信繁(幸村)といえば、家康の首に迫って自害を覚悟させたという話や伊達家の騎馬鉄砲隊を蹴散らし、「関東武者が百万いても、男子は一人もいないものだな」と嘲笑したなど、大阪夏の陣での勇猛果敢な戦いぶりがよく知られていますが、それらは逸話や後世の物語によって作られたイメージです。
実際の信繁はイメージとだいぶ異なっているようで、兄・信之は弟について「心優しく物静かで言葉も少なく、腹を立てることも少なかった」と記録しています。また周囲への気遣いも大変細やかで、周りからの信頼も厚かったと伝わっています。
そんな穏やかな信繁ですが、一度本気で怒った事件がありました。それは、関ヶ原の戦いが終わり、父・昌幸と信繁が上田城に帰る途中のこと、孫の顔を見ようと信之の居城・沼田城に立ち寄りました。ところが、夫の留守を預かっていた小松姫は「夫がいない間は、義父、義弟でいえども入城させません」と門を固く閉ざしたままでした。
このことを「これで真田家も安泰」と昌之も喜んだともいわれていますが、信繁はこの対応に激怒。沼田城に突入しようとし、父に止められたといいます。しかも「沼田の町に火をかけましょう」と父親をけしかけたとも伝わります。
信繁が激怒した記録は後にも先にもこれだけと伝わります。