もしも英雄・伊達政宗が“10年早く”生まれていたら、本当に天下を獲れていたのか?を検証・考察
遅れて来た英雄・伊達政宗。その才覚や器量は「もし十年早く生まれていれば、天下を獲ることも出来ただろう」などと言われるほどでした。
……そう聞くと、ふと疑問が湧いてきます。もし伊達政宗が十年早く生まれていたら、本当に天下を獲れたのでしょうか。
歴史にif(もしも)はありませんが、考えてみるのも面白そうです。今回は「もし伊達政宗が十年生まれていたら、天下が獲れたか」を考察したいと思います。
※合わせて読みたい!
伊達政宗はなんと江戸幕府転覆を目論んでいた!?「慶長遣欧使節」に秘められた野心とは【前編】
宗教と通称は別物江戸時代の外交というと、鎖国のイメージから、日本は限られた国としか外交がなかったと思いがちです。しかし実は、鎖国が始まる前の江戸初期、徳川家康が生きていた時代には貿易は積極…
実は「独眼竜」ではなかった伊達政宗!なぜ隻眼のヒーローとして知られるようになったのか?
生前は「独眼竜」と呼ばれていない伊達政宗といえば「独眼竜」というキーワードでおなじみで、刀の鍔を使った眼帯姿で描かれることが多いです。彼については、こんなエピソードがよく知られていますね。…
伊達政宗の生涯
まずは前提として、政宗の生涯を駆け足でたどってみましょう。
政宗の生年は永禄10年(1567年)8月3日。織田信長が足利義昭を室町将軍に奉じて上洛を果たす前年ですね。この時点では、まだ天下の行方は分かりません。
そして政宗が家督を継いだのは、18歳となった天正12年(1584年)。信長が本能寺で横死を遂げ、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が織田政権を乗っ取り終えた後でした。
こうなるともう天下の趨勢は決まったようなもの。まだまだ毛利(中国)・上杉(北陸)・長宗我部(四国)・島津(九州)・北条(関東)と言った強豪は残っているものの、彼らが束になってかかっても秀吉を滅ぼすことはできなかったでしょう。
そして天正18年(1590年)。後は関東・奥州を残すのみとなった秀吉が北条征伐に乗り出すと、政宗は北条と共闘するか、秀吉に臣従するかギリギリまで悩んだと言います。
結局は秀吉に臣従した政宗ですが、秀吉が世を去ると五大老の一人・徳川家康に接近。その後関ヶ原合戦や大坂の陣において家康に与し、豊臣政権の滅亡後は徳川家三代(家康・秀忠・家光)に仕えました。
そして寛永13年(1636年)5月24日に享年70歳で世を去ったのです。
……確かに「天下を獲るには、生まれるのが遅すぎた」感が否めませんね。


