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もしも英雄・伊達政宗が“10年早く”生まれていたら、本当に天下を獲れていたのか?を検証・考察

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十年早く生まれていたら、どうなった?

それでは政宗が十年早く、弘治3年(1557年)に生まれたらどうなっていたでしょうか。

この年は織田信忠(信長嫡男)や千代(山内一豊正室)が生まれています。ちなみに信長は天文3年(1534年)、秀吉は天文6年(1537年)、そして家康は天文11年(1543年)生まれです。

この想定では、家康が世を去った元和2年(1616年)時点で50歳。寿命が史実通り70歳だった場合、まだ20年の余命があります。もし政宗にその気(天下を獲る野心)があれば、最後に乾坤一擲の勝負に出ることも不可能ではなかったでしょう。

家康だって慶長5年(1600年)関ヶ原合戦から15年の歳月をかけて豊臣政権を滅ぼしており、本気で天下を狙うなら、10年20年計画は覚悟で臨まなければなりません

もちろん、機が熟するまでに「天下を狙い得るだけの勢力基盤を形成し得たか」という問題はあります。

もし政宗が弘治3年(1557年)に生まれたとして、18歳となった天正2年(1574年)に家督を継承した場合、周囲の状況は概ねこのようになっていました。

  • 南に蘆名氏
  • 西に上杉氏
  • 東に相馬氏
  • 北に最上氏、大崎氏

※ほか畠山氏、二階堂氏などがひしめいています。

いずれも強敵揃い、果たして政宗は彼らとどう対峙したのか……一概にこうとは言い切れません。

実際には天正17年(1589年)時点で陸奥国中部と南西部、出羽国南東部(宮城県南部・山形県南東部・福島県西部)を領し、全国的にも屈指の勢力を築き上げました。

ここに十年のアドバンテージを加えたら、現代で言う宮城県と福島県の全域、そして山形県の南部と岩手県の南部くらいは掌中に出来たのでしょうか。

3ページ目 実際に天下を狙えたタイミングは?

 

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