「天保の改革」で失脚の水野忠邦、実は老中トップに返り咲いていた!異例の復活を果たした男の結末は?
「天保の改革」その後
天保の改革といえば、厳しい倹約令や風俗の取り締まりで知られる水野忠邦が思い浮かびますね。
徳川幕府、威信失墜の始まり「天保の改革」――水野忠邦の失策と薩摩・長州の成功を比較
彼が失脚した直接の原因とされるのが上知令です。これは大坂や江戸周辺の約五十万石を大名や旗本から取り上げ、幕府の直轄地にして財政を立て直そうとする計画でした。
しかし、この強引な策は猛烈な反発を招き、結果として彼は老中の座を追われることになります。
教科書ではここで「水野忠邦の時代は終わり」といった書き方をされることが多いですが、実は彼の政治生命には続きがありました。
忠邦が失脚したあと、老中のトップには土井利位が就きます。
彼は上知令以外の改革を引き継ぎましたが、江戸城の火災や対外問題への対応で失敗し、将軍・家慶の信頼を失ってしまいます。
そんな政治的空白が生まれた1844年、オランダ国王ウィレム二世から特使コープスが派遣され、日本に開国を勧める国書が届いたのです。
外交は得意
ここで驚くべき人事が起こります。一度は失脚したはずの水野忠邦が、外交手腕を買われて再び老中首座に任命されたのです。
これには周囲も驚きました。失脚した老中がトップに返り咲くというのは異例中の異例です。
実は、水野忠邦を語るうえで忘れてはならないのが、外交面での手腕です。
ドラマや小説では、忠邦は時代の変化に疎い頑固な政治家として描かれがちですが、実際はそうではありませんでした。彼は幕府のなかでも、海外情勢については極めて現実的な対応をした人物だったのです。
そもそも彼が抱いていた危機感は二つありました。一つは年貢収入が減っているのにお金遣いが荒い幕府の放漫財政。そしてもう一つは頻繁に姿を見せる外国船と、それに伴う沿岸住民の密貿易による鎖国体制の揺らぎです。
先述のオランダ特使からの忠告をまたずとも、鎖国体制の綻びはずっと以前から課題としてありました。
一応、1825年には異国船打払令が出され、日本に来る外国船は問答無用で追い払うという方針が取られています。
しかし、1840年にアヘン戦争が起き、大国である清がイギリスに敗れました。さらに1844年には不平等な南京条約を結ばされています。
こうした情報は幕府に衝撃を与えます。強硬な態度を取り続ければ、日本も清の二の舞になるかもしれないと考えた忠邦は、方針を大転換したのです。そこで発令したのが、遭難した船には水や食料を与えるという薪水給与令でした。
国内政治では不人気で失敗続きだった忠邦ですが、この柔軟な外交判断は、将軍や幕閣から高く評価されていました。また、先述のオランダ特使もこの薪水給与令をよき政策として認めていたといいます。
現代の政治家も同じですが、昔から政治家には得意・不得意分野があったということですね。


