手洗いをしっかりしよう!Japaaan

「天保の改革」で失脚の水野忠邦、実は老中トップに返り咲いていた!異例の復活を果たした男の結末は?

「天保の改革」で失脚の水野忠邦、実は老中トップに返り咲いていた!異例の復活を果たした男の結末は?:2ページ目

歴史の因果

しかし、水野忠邦の復活劇は、幕府内部に新たな火種を生むことになりました。

忠邦は自分が失脚した際に関わった人々への報復人事を始め、反対派も負けじと巻き返しを図ったのです。

こうして幕府内は、政策論争以前の激しい権力闘争の場となってしまいました。

オランダ国王からの親書への対応について、忠邦は保留と問題の先送りを提案します。慎重といえば慎重ですが、決断を避けたとも言えます。

その後、忠邦は天保の改革時代の収賄疑惑を追及され、わずか一年足らずで二度目の失脚を喫しました。

この泥沼の争いの中で頭角を現したのが、当時二十五歳という若さの阿部正弘です。

こうして問題となっていたオランダへの返答は、彼が担当することになりました。

そして阿部は「これまでの信義は守り貿易は続けるが、政治的な干渉は受け入れない」という絶妙な論理で、開国勧告を拒絶したのです。

結果だけを見ると、水野忠邦はこの時点で既に政治家として潮時を迎えていたと言えるでしょう。度重なる二度の失脚には、大した意味はないように見えるかも知れません。

しかし彼の復活がなければ権力闘争は起こらず、阿部正弘が抜擢されなかった可能性があります。

すると、後年のペリー来航時に、阿部が活躍して改革を進めることもなかったかも知れません。忠邦の失脚と復活は、こんな形でのちの歴史に思わぬ因果をもたらしたのです。

参考資料:
浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:Wikipedia

 

RELATED 関連する記事