家康にも臆さない。勇猛果敢な真田信繁(幸村)は本当は物静かな武将だった:2ページ目
信繁はその後、大阪夏の陣で徳川方と戦って討ち死にしてしまいます。
現在、彼の菩提を伴う遺構は全国に8箇所残されており、死後も多くの人たちに慕われていたことをうかがわせます。
龍安寺塔頭大珠院(京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13)
現在は非公開ですが、石庭で有名な龍安寺の塔頭大珠院には真田信繁夫妻を供養する墓があります。 これは、豊臣家の大名で関ヶ原の戦いまでは犬山城主であった石川貞清が建立しました。
関ヶ原合戦後は剃髪して宗林と名乗った貞清は、真田信繁の七女を妻としたことから、信繁の母の竹林院を援助し、竹林院没後に大珠院を菩提所とし、その前に広がる鏡容池の弁天島に墓を建立しました。
田村家墓所(宮城県白石市福岡蔵本字愛宕山)
大坂の陣後に、阿梅、大八、おかね、阿菖蒲(あしょうぶ)ら信繁の遺児は、伊逹家の重臣・片倉重長に扶育され、阿菖蒲は成長すると伊達家臣の田村定広に嫁ぎます。
田村定広は、陸奥国三春の戦国大名だった田村清顕の一族で白石の地に田村一族の墓所を建立する時に、密かに阿昌蒲の父である真田信繁の供養塔も建てました。
自然石を使って墓銘も刻まれていないこの供養塔とは別に「真田左衛門佐源幸村御墓」と刻まれた真田一族の墓もあり、こちらは阿菖蒲の墓と並んで田村家墓所の一隅にたたずんでいます。
長国寺(長野県長野市長野県長野市松代町)
真田信繁の兄・信之は、徳川家康の重臣、本多忠勝の娘・小松姫を妻としたことなどから、大坂の陣では豊臣方についた父、弟と袂を分かち、徳川方の武将として戦いました。
その結果、信之は信濃国松代藩13万石の大名となり、真田の血筋を現代にまで伝えることになります。
その松代藩真田家の菩提寺である長国寺には、国指定の史跡である松代藩真田家墓所があり、信之の一族だけではなく、信繁と嫡子・大介の供養塔が建てられています。