【豊臣兄弟!】変わりゆく秀吉…『刀狩り令』の史実――武器は本当に大仏の釘になった?民衆が見抜いていた計略
NHK大河「豊臣兄弟」第43話『殿下の刀狩り』。
ここ最近は、固く結ばれていた“兄弟の絆”にほころびが生じ、暗雲が忍び寄って来た気配を感じます。
この先の、豊臣家の運命を暗示するような場面が少しずつ増えてきました。
大坂城から朝日を眺めつつ「今が一番えぇ……そんな気がするわ。」と言った秀長(仲野太賀)の言葉。
秀次(山田涼介)発案による、聚楽第完成のお祝いと豊臣の権力を誇る一大イベントだったのに、刃傷沙汰と一揆で中止になった「北野大茶湯」。
大茶湯に反対だった秀長の本心を見破った千利休(吉岡秀隆)の「今や敵がいなくなった兄弟は、これまでお互いに見えなかったものが見えてしまうかも」という不吉な予言。
そして、久々に再会した元室町幕府将軍・足利義昭(昌山/尾上右近)の「兄をいさめ助けられるのはお主だけ」という警告。
秀長への疎ましい思いを隠さず、秀吉に寄り添い、不穏な空気を醸し出しはじめた秀次。
一つ、一つ、これから待ち受ける未来への伏線が積み重なっています。
そして、とうとう発令された秀吉の『刀狩り』令。
史実でも秀吉の有名な政策ですが、目的は?方法は?などは意外と知られていない部分もあるようです。
そこで、現存する一次史料と近年の研究に基づき、史実の刀狩令とはどのようなものか整理してみました。
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「一揆を起こさせないぞ」が伝わる三ヶ条
「肥後国人一揆」を九州・四国の大名を総動員して鎮めた秀吉は、翌年、その原因を作ったとして佐々成政を切腹させました。
その後、天正16年(1588年)7月8日に『刀狩令』を発布。
「刀狩令」とは、兵農分離政策(武士階級とそれ以外の階級との身分的分離政策)で、安貞2年(1228)に北条泰時が高野山の僧侶に対して行ったのが、日本史記録上初だそうです。
また、天正4年(1576)には、柴田勝家も越前で一揆を鎮めた後に「刀さらえ」を行なっています。
秀吉の「刀狩令」は、主に以下の三ヶ条でした。
一) 百姓が刀・脇差・弓・槍・鉄砲などの武具を持つのは禁止。武器を持ち年貢を怠ったり一揆を起こした者は罰する。
二)取り上げた武器は、建築中の方広寺大仏の釘や鎹(かすがい)に使用するので、百姓はあの世で救われる。
三) 百姓は農具だけを持ち耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮らせる。
この三ヶ条は、武器を取り上げて百姓一揆を防ぎ・「百姓=田を耕す存在」という役割を定め・武器を差し出すことであの世まで救われるという信仰のメリットを打ち出し反抗心を和らげる……秀吉らしい知略を巡らせた法令だといわれています。
現存する『豊臣秀吉掟書・刀狩令(島津家文書)』(東京大学史料編纂所)によると、
「年貢所当を難渋せしめ、一揆を企み、自然給人に対し非儀之動をなす族、勿論御成敗あるへし」
と「一揆を企み」と書いてあります。
「肥後国人一揆」の後だけに、2度と一揆は起こさせないぞという思いも感じられます。


