【豊臣兄弟!】変わりゆく秀吉…『刀狩り令』の史実――武器は本当に大仏の釘になった?民衆が見抜いていた計略:3ページ目
本当に武器は「大仏の釘」になったのか?
前述の『豊臣秀吉掟書・刀狩令(島津家文書)』の二項目目に、
「右取をかるへき刀・わきさし、ついへにさせらるへき義にあらす、今度大仏御建立候釘・かすかいに被仰付へし、然ハ今生之儀は不及申、来世迄も百姓相たすかる儀に候事、」
とあります。現代語にすると「取り上げた刀・脇差は無駄にせず、今度の大仏建立の釘やかすがいに用いる。そうすれば百姓は今生だけでなく来世まで助かる。」
というような意味です。
史実では、これは「誰のアイデアによるものか?」の裏付けはありません。
秀吉が発願した大仏を安置するための『方広寺』が創建されたのは文禄4年(1595)。
天正14年(1586)に松永久秀が焼き討ちにした、東大寺大仏に変わる新しい大仏を京都に造立しようとしたのでした。
そして、天正18年(1590)の小田原征伐を挟み、天正19年から大仏殿の立柱工事がスタート、文禄4年(1595)に完成しました。
実際に『刀狩り』で集めた刀などの武器が釘として使用されたという話もありますが、全部なのか?どれくらいの量だったのか?は明確ではありません。
『多聞院日記』には、「百姓の刀を取り上げて大仏の釘にすることは現世を平和に来世にも利益があるので正しい手段だという」が、
内証は一揆停止と為なりと沙汰あり。種々の計略なり
と締めくくっています。
「しかし内々では一揆を止めさせるためだという評判がある。さまざまな計略である。」
……と、「世間の人々は、大仏の釘は建前で一揆を抑え込みたいという計略だろう」と見抜いていたことが伝わるような一文です。
奪う側の権力者は「仏様の功徳が」といえば民も納得する妙案だと思っても、奪われる民にとっては「しらじらしい」としか思えなかったのかもしれません。
しかしながら、その後も一揆は起こっていますが「刀狩令を理由にした一揆」は起こらなかったそうです。
最後に
「豊臣兄弟!」では変わりゆく秀吉、そんな兄の暴走を止めようとする秀長、不穏な空気を纏いはじめた秀次など、この先の豊臣政権の滅亡を思わせるような出来事が続いています。
予告でちらりと映った「千利休が積み上げたまんじゅうが崩れる」場面も、あれこれ次々と権力者が命令を出して積み上げていくと、重みと不均衡さに崩れてしまうという暗示でしょうか。
佐々成政(白洲迅)に切腹を命じた秀吉(池松壮亮)、「刀狩令」に対する考え方の秀長と秀次の相違……さらに波乱含みの展開になりそうですね。
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参考:
・『刀狩り: 武器を封印した民衆』(岩波新書 新赤版 965)藤木 久志
・『豊臣秀吉掟書・刀狩令(島津家文書)』(国宝)東京大学史料編纂所



