【豊臣兄弟!】変わりゆく秀吉…『刀狩り令』の史実――武器は本当に大仏の釘になった?民衆が見抜いていた計略:2ページ目
「刀狩令」の同日『海賊停止令』も
実は、この「刀狩令」が発令された天正16年(1588年)7月8日には、『海賊停止令』も発令されています。
かつて日本にも存在した「海賊」の終焉…秀吉が「海賊停止令」の3択で迫った完全服従の真相
日本における海賊は沿海における豪族でもあり、大名が領地を持つように海上に縄張りを持って相互に連合組合組織を持つなど、ある程度の規模がある組織でした。
大名や商家に依頼され、船舶の警護をすることもあったとか。
そんな海賊衆に秀吉が出した『海賊停止令』は
・豊臣政権体制の大名になる
・特定の大名の家臣団になる
・武器を放棄して百姓になる
のいずれかの選択を迫るものだったそうです。
そして、海賊行為をしない旨の連判の誓紙を提出させて、海賊衆の武装解除をさせたのでした。これは、刀狩と同様、天下人・秀吉の支配を海においても徹底させるための兵農分離策だったといわれています。
この『海賊停止令』によって、海賊衆は日本史から姿を消すこととなりました
「刀狩令」はいつどこから実施された?
「刀狩令」は秀吉の朱印状として、主に西国の大名や有力寺社に届けられました。
確実に受け取ったことがわかるのは、小早川隆景・島津家・大友家・立花家・加藤清正・加藤嘉明・高野山など。
九州平定直後の西国が中心だったそうです。
一方、徳川家康や前田利家のような上位大名には、交付された記録が見当たらず、近年の研究では「全国一律に発令」というより、政権内の序列を示す意味も強かったともいわれています。
刀狩令とはいっても「全ての武器を厳密に取り上げる」というものではありませんでした。
・刀と脇差が中心で、田畑を荒らし収穫に影響する獣よけの鉄砲が必要な地域に関しては、許可制で鉄砲は取り上げなかった。
・秀吉の家臣らが村に押し入って取り上げる形ではなく、各地の国主・給人・代官が村単位で武具を集めて秀吉のもとに進上する形で進められた。
実際は、従来の大量に武器を持つ百姓の「武装解除」というよりも、「刀を持っていい武士と畑を耕す百姓」とわかりやすく身分の違いを表すほうが本来の目的という見方もあるようです。


