【真田十勇士】どこまでが史実?ドラマの舞台『九度山』真田幸村が耐えた14年の困窮と十勇士の正体:3ページ目
「いつか大阪城へ参ずる日が来る」
晩年の昌幸から信之宛書状では「此の一両年は年積もり候ゆえ、気根くたびれ候(中略)、ここもと永々の山居、よろず御不自由御推察なさらるるべく候」(『真田家文書』)とあります。
現代語にすると「ここ1、2年は年を取ったため、気力も体力もすっかり衰えてしまいました。こちらの長く続く山里での暮らしは、何かと不自由なこととお察しください。」というような内容でしょう。
長く続いた、困窮生活が体力や気力を奪っていった様子が伺えます。
父・昌幸は1611年に九度山で病死しました。
幸村は「いつか大阪城へ参ずる日が来る」とその後もこの地に残り、監視下にありながらも、村人とのある程度の交流があったようです。
脱出不可能だった「九度山」を出て大坂城へ
慶長19年(1614)、大坂城より豊臣秀頼の招きを受けた幸村は、九度山を脱出して大坂城へ向かいました。抜け出したのは10月9日ごろとされます。
『名将言行録』などには、父の法要を名目に村人を招いて酒を振る舞い、皆が酔いつぶれたすきに出発したという逸話が載るものの、後世の話でどこまで史実かは不明です。
幸村はわずかな家臣とともに出陣しますが、途中幸村を慕う士豪らが合流し大坂城に到着した頃には数千人にも人数がふくれあがったともいわれています。
ドラマの2話では、猿飛佐助に出会った真田幸村が、霧隠才蔵(中川大志)らとともに九度山からの脱出を決意。
ところが、関所奉行の首藤景明(橋本じゅん)が監視を強化、徳川最凶の刺客・柘植清弘(関口メンディー)の急襲で、十勇士の一人、弓の名手・海野六郎(袴田吉彦)が惨殺されてしまいました。
あと一歩で脱出できそうなのに大ピンチに陥った幸村たち。
けれど、突然村人たちが突撃して首藤らを命懸けで阻止してくれました。いつもお金や収穫物を村人たちに分配していた恩返しでしょう。
村と外に通じる門をこじ開けた九度山の村長(大高洋夫)は、背後から刀で貫かれながらも「真田…幸村、いけえぇぇっっぇ!」と絶叫。命懸けで彼らの脱出を助けたのでした。
その様子を見ていた佐助は、「忠義などくそくらえ!」なポリシーに変化が生じ、真田のために敵と対峙するようになったのです。
ところで、早々に殺されてしまった海野六郎ですが、その名前は江戸時代の軍記『真田三代記』に登場しています。
ただし、“真田幸村に仕えた”という史料は見当たらないようです。
しかしながら、実在に一族として真田家と深いつながりを持つ信濃の名族・海野氏という存在があるので、ドラマの海野六郎はそこから名前をとったのかもしれません。
4ページ目 最強忍者軍団を生んだ大正のベストセラーと、九度山で愛される名物犬「ゴン」


