【真田十勇士】どこまでが史実?ドラマの舞台『九度山』真田幸村が耐えた14年の困窮と十勇士の正体:2ページ目
九度山では生活に困窮していた真田昌幸ら
史実でも、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で西軍は大敗。西軍側についていた真田昌幸・次男幸村(信繁)には上田領没収と死罪が下されました。
けれども、東軍に属した長男・信幸(信之)らの嘆願で死を免れ、高野山への蟄居を命じられた後、山麓の九度山に移り住みました。
家臣約16人ほどと家族という大世帯だったために、暮らし向きは苦しく質素だったそう。
生活費は信之ほかの援助があったものの、昌幸は家族や家臣を多数抱えて経済的に困窮し、長男・信之や親族、旧知の寺院などに送金を依頼する書状を出しています。
さらに、真田幸村は兄・信之の家臣に当てて、「焼酎を送ってほしい」と送った書状も。
ドラマでも、真田幸村と十勇士がかなり生活に困窮し畑仕事などをしながらも、日々の食べるものに困っている様子が描かれていました。
それでも幸村は兵術や天文を学び、嫡男・大助(幸昌)とともに紀の川で水練を行うなど、将来に備えていたという伝承もあります。
また、生活の足しに『真田紐』を編み、家臣や村人に売り歩かせたという逸話も有名です。
劇中でも十勇士のメンバーが真田紐を懸命に製作し、村の娘などが売り歩き、その売り上げはすべて村人たちに寄付する場面がありました。
真田紐は経糸と緯糸を密に織り上げた細幅の織物で、強靭で伸びにくく、古くは刀装や甲冑などに使われていたそうです。
安土桃山時代以降は茶道の隆盛とともに、茶道具や美術工芸品の箱紐として広く用いられるようになりました。
