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【豊臣兄弟!】退場が迫る蜂須賀正勝(高橋努)には息子が!志を継ぎ秀吉を支えた嫡男・家政の生涯【前編】

【豊臣兄弟!】退場が迫る蜂須賀正勝(高橋努)には息子が!志を継ぎ秀吉を支えた嫡男・家政の生涯【前編】:3ページ目

飴と鞭の阿波統治

かくして阿波一国を与えられた家政ですが、実際には天正13年(1585年)時点から阿波一宮城の主となり、将来を見据えて領国経営に着手していたと言います。

まずは新たな拠点として徳島城を築き上げ、城下町の整備とともに領内の秩序回復や領民慰撫にも尽力しました。

四国攻めはもちろんのこと、それまで相次ぐ戦乱で疲弊していた人々の暮らしを守ることで、自らの勢力基盤を磐石にしたのです。

もちろんそれですぐにみんなが従った訳ではなく、自立心の強い山岳地域の土豪勢力は家政の統治に反発し、天正13年(1585年)の祖谷山一揆(いややまいっき)など武力蜂起も勃発しました。

家政は自ら出陣して鎮圧する一方で土豪勢力に対する調略も進め、飴と鞭を使い分けながら抵抗勢力を切り崩していきます。

先の話になりますが、最終的な一揆鎮圧は天正18年(1590年)。祖谷山地域が蜂須賀家に臣従し、武装を放棄したのは、元和3年(1617年)の刀狩りというしぶとさでした。

それでも家政は粘り強く一揆勢力と向かい合い、天正17年(1589年)には太閤検地を実施して兵農分離を推進していったのです。

また家政は領国経営の一環として、阿波九城(九つの支城)と駅路寺(えきろじ)の整備にも着手しました。

駅路寺とは街道沿いの寺院に所領を与える代わり、その収益で街道を行き交う人々に便宜(休憩宿泊・物資補給・緊急避難など)を与えることを命じた制度です。現代でいう道の駅でしょうか。

そうこうしていたら天正14年(1586年)に徳島城が完成しました。家政は領民に対して「城が完成した祝いに、思い切り羽目を外して踊れ」と命じたそうです。一説には、これが阿波踊りの始まりと言われています。

この年の5月22日、正勝はこの世を去ったのでした。粘り強く阿波国統治に臨む家政の姿を見て、安心していたのではないでしょうか。

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※参考文献:

  • 石躍胤央他『徳島県の歴史』山川出版社、2007年6月
  • 工藤寛正編『江戸時代全大名家事典』東京堂出版、2008年1月
  • 藩主人名事典編纂委員会編『三百藩藩主人名事典 四』新人物往来社、1986年7月
  • 渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』草思社、2021年1月
 

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