【豊臣兄弟!】退場が迫る蜂須賀正勝(高橋努)には息子が!志を継ぎ秀吉を支えた嫡男・家政の生涯【前編】:2ページ目
父から阿波一国を譲られる
信長亡き後の織田政権継承戦争でも家政は連戦し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳合戦(対 柴田勝家)や天正12年(1584年)の根来衆・雑賀衆鎮圧でも武功を重ねます。
これらの功績により、家政は播磨国佐用郡(兵庫県西部)に知行3千石を与えられました。
ここまで武辺の働きが目立つ家政ですが、一方で外交でも手腕を発揮しています。例えば天正10~13年(1582~1585年)にかけて父や黒田官兵衛(倉悠貴)らと共に、毛利氏と領土交渉を担当していました。
毛利側の吉川元春(こばやし元樹)・小早川隆景(山本浩司)から家政に対して秀吉へのとりなしを依頼する書状も確認されており、ひとかどの人物として認識されていたことがわかります。後に「古ダヌキ(または古ギツネ)」と呼ばれる老獪さを、若い内から発揮したことでしょう。
続く天正13年(1585年)の四国攻め(対 長宗我部元親)では、阿波木津城(徳島県鳴門市)攻めや阿波一宮城(徳島県徳島市)攻めでも武功を立てました。
長宗我部元親(磯部寛之)が降伏した後の四国国分(くにわけ。所領の再配分)では、はじめ秀吉が阿波一国を父の正勝に与えようとします。
しかし正勝は自分がすでに高齢であること、また自分はあくまでも秀吉の側近として忠義を尽くしたいことを述べて、阿波一国を家政へ与えるよう頼みました。
そんな正勝の心意気をくんで、秀吉は家政に阿波一国を与えることにしたのです。かくして家政は天正14年(1586年)に阿波18万石の国持ち大名となり、また同時期に従五位下・阿波守に叙せられたのでした。
