史料に名前がない!“扇の的”の伝説的武将・那須与一は実在せず「複数人の合体」だった?
屋島の戦いの英雄
源平合戦の英雄として、今もよく知られている武将が那須与一(なすのよいち)です。『平家物語』では、屋島の戦いで平氏方の女房が小舟に立てた扇を、与一が見事に射落とします。
この場面は『平家物語』の中でも特に有名な場面です。敵味方から賞賛された与一は、その後、戦功によって武蔵国太田荘などの荘園を与えられたと伝えられています。
ところが、ここで気になる問題があります。那須与一という武将は、本当に実在したのでしょうか。
実は、同時代の一次史料には、その名前が確認できません。
そこで歴史学では、実在性を疑う見方や、那須氏に属した複数の武将の活躍が、後世に一人の英雄へまとめられたとする説があります。本稿ではそうした説についてご紹介しましょう。
与一という名前
そもそも「与一」は、本名ではなく通称だとされています。「十余る一」で本来は十一男を意味する呼び方で、本名は宗隆、那須資隆の十一男だったという伝承が残っています。
兄たちの多くが平氏側についたため家督を継ぎ、相続後は資隆と名乗ったという言い伝えも。しかし、その後は地位を捨てて出家したとも伝えられており、もともと不明点も多い存在でした。
さらに、「与一」という呼び名は那須氏だけのものではありません。佐奈田義忠や浅利義遠など、同時代人にも与一を称した人物がいました。
この三人を合わせて「源氏の三与一」と呼ぶこともありますが、これは17世紀以降に広く定着したものと考えられており、比較的新しいものなのです。
つまり、現在よく知られている「那須与一」という名前そのものにも、後世の伝承が入り込んでいる可能性があります。
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