天才 vs 秀才!「禅宗」はなぜ南北に分断されたのか?六祖慧能と弟子たちの禅統をたどる
6世紀に達磨大師(だるまたいし)が開眼し、以来21世紀の現代まで伝わる禅宗(ぜんしゅう)。
日本へは鎌倉時代(13世紀)に伝来、臨済宗(りんざいしゅう)と曹洞宗(そうとうしゅう)が知られています。
ところでこの禅宗が、南北二宗(南宗と北宗)に分かれているのをご存知でしょうか。
今回は禅宗が南北に分断された、とある天才と秀才のエピソードを紹介したいと思います。
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若き天才・慧能の発心
禅宗が南北に分断されたのは、第六祖・慧能(えのう)大師の時代。
慧能の俗姓は盧(ろ)氏、7世紀(西暦637年)に嶺南の新州(現代の広東省)で誕生しました。
※本名不詳のため、以後「慧能」で統一します。
俗に南蛮(南方の異民族・野蛮人)と蔑み呼ばれる地方で育った慧能は、幼くして父を亡くしたため、樵(木こり)として老母を養っていました。
家が貧しいため、もちろん学問などする余裕はありません。
そんな慧能はある時に発心。貯めたお金で老母の世話を人に頼み、第五祖・弘忍大師の元へ旅立ちます。
【達磨大師からの禅統】
- 開祖・達磨大師
- 第二祖・慧可(えか)大師
- 第三祖・僧璨(そうさん)大師
- 第四祖・道信(どうしん)大師
- 第五祖・弘忍(ぐにん)大師
- 第六祖・慧能大師
30日余りにわたる険しい旅路を経て、ようやく念願の弘忍大師に拝謁しました。
「南蛮の者がどうして仏になれようか」
はじめは冷たく突き放す弘忍に対して、慧能は毅然と反論します。
「人に南北の違いがあっても、仏の教えに南北の違いはあるのでしょうか」
この態度を見込んだ弘忍大師は、慧能を米搗き男として寺に置くこととしました。
慧能は素直に従い、せっせと米を搗きながら8ヶ月が過ぎたのです。
秀才の詠み上げた禅詩
ある時、弘忍大師は後継者を選ぶ時が来たと感じました。
「お前たち、それぞれ自分の悟ったことを詩に詠むがいい。真に悟りを開けた者に、我が衣鉢(いはつ)を受け継ごう」
衣鉢とは袈裟(僧衣)と鉢(托鉢用)で、禅統を継承した禅祖の証です。
弘忍大師のお題に対して、弟子の中で最も優れていた神秀(じんしゅう)が筆をとりました。
【神秀の詩】
身はこれ菩提樹(ぼだいじゅ)
心は明鏡(めいきょう)の台(うてな)の如し
時時(じじ)に勤めて払拭(ほっしょく)し
塵埃(じんあい)をして有らしむことなかれ
【詩の意味】
私の身体は菩提樹のように健やかで、心は台に据えられた鏡のように輝いている。
チリひとつないように、いつも一生懸命に磨き上げなければならない。
……とのことです。これを見た他の弟子たちは口を揃えて絶賛します。
しかし弘忍大師は黙って詩を眺めるばかり。何も口にはしませんでした。



