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「べらぼう」なぜ田沼意次(渡辺謙)は徹底的に排除された!?理由を江戸幕府の政治理念から考察【前編】

「べらぼう」なぜ田沼意次(渡辺謙)は徹底的に排除された!?理由を江戸幕府の政治理念から考察【前編】:4ページ目

意次の存在を徹底的に消し去った定信と治済

家治の死後、養子の家斉(一橋治済の長男)が11代将軍に就任します。これを機に松平定信と一橋治済は、意次の老中罷免を皮切りに、田沼派の一掃を断行します。

意次は所領のうち2万石を没収され、大坂蔵屋敷の財産も没収、江戸屋敷の明け渡しも命じられました。その後、さらに所領を没収されたうえ蟄居を命じられ、2年後の1788年、失意のうちに江戸にて亡くなったのです。

田沼家は孫の龍助を藩主として、陸奥下村1万石に減封。その際、意次が心血を注いで築城した相良城は、徹底的に破却されます。

江戸時代においては、低い身分から頂点に登りつめた人物の多くは、後ろ盾の将軍が亡くなると失脚を余儀なくされることが多かった。しかし、柳沢吉保や間部詮房でさえ、移封に留まっています。

それに比べて、意次が定信や治済から受けた仕打ちはあまりにも苛烈であり、両者の意次に対する憎悪は異常としか言いようがありません。

では一体なぜ、家治が「知恵は譲りたくない」とまで称えた田沼意次が、家斉政権のもとでその実力を発揮するどころか、完全に消されてしまったのでしょうか。

その理由を解き明かすには、江戸幕府を開いた徳川家康の政治理念にまで遡って考える必要があるのです。

では、[前編]はここまで。[中編]では、家康が構築した江戸幕府の政治思念とその事績についてお話しします。

【中編】の記事はこちら↓

「べらぼう」なぜ田沼意次(渡辺謙)は徹底排除されたのか!?鍵は徳川家康の政治理念だった!【中編】

「10代家治は凡庸な将軍だった。しかし、一つだけ良いことをした。それは、田沼主殿頭意次を守ったこと。今日の繁栄があるのはそのおかげだ。」【大河べらぼう】第19回「鱗(うろこ)の置き土産」で、将…
 

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