「べらぼう」なぜ田沼意次(渡辺謙)は徹底的に排除された!?理由を江戸幕府の政治理念から考察【前編】:3ページ目
徳川家治の死は複雑に絡んだ政治的陰謀が原因?
1786年8月、意次の後ろ盾であった家治が突然死亡します。死因は、脚気による心不全、感冒による内蔵衰弱などさまざまな説がありますが、身体がしきりに震え、激しく吐血したという異常な死にざまだったともいわれ、政治的な思惑が重なったうえでの毒殺の可能性も否定できません。
家治の死をめぐっては、その直後から大奥を中心に「意次が上様に毒をもった」という意次毒殺説が囁かれました。しかし、意次に家治を殺す理由は全く見当たりません。
むしろ、家治の死は、彼の死去を契機に意次を失脚させようとした反田沼派による何かしらの陰謀があったと考える方が自然なのではないでしょうか。
そもそも、意知暗殺後の江戸では、佐野政言を称賛する声が広がり、田沼政治への批判が高まりました。そして、意知の死を嬉しがるような落書や戯れ歌が流行したとも言われています。
このような風潮に対し、当時のオランダ商館長イサーク・ティチングは世界に書見を発しています。
そこには、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから生じた事件である。井の中の蛙のような幕府首脳陣の中で、田沼意知ただ一人が日本の将来を見据えていた。彼の死によって、日本が開国に向かう道は完全に閉ざされた」と。
彼は、田沼父子を快く思わない勢力が黒幕となり、佐野を使って意知を殺害させ、さらに反田沼の言論を煽ったことに確信を持っていたのでしょう。
このように「田沼たちを守る」と決意した家治は、その死もあって、結局は意次を守りきれませんでした。
