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「べらぼう」なぜ田沼意次(渡辺謙)は徹底的に排除された!?理由を江戸幕府の政治理念から考察【前編】

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家治の「知恵は譲りたくない」が重要なキーワード

「もう自分の実の子を持つことは諦める」と決断した家治は、「自分には二つやらなければならないことがある」と、悲壮感を漂わせながら決意を述べます。

一つは「養子をとって因縁を断つ」こと。もう一つは、「田沼たちを守る」ことでした。

「養子をとって因縁を断つ」とは、将軍位を巡る政争によって無駄に命が失われることを防ぐという意味です。また、生まれつき脳性麻痺だったといわれる父・家重の血を引く自分には、たとえ子どもが生まれても無事に育つか分からない。その悪しき因縁をここで絶つ、という決意でもありました。

そのうえで家治は次代の将軍に対し、「血筋は譲る。でも知恵は譲りたくない」と言い放ちます。

実はこの「知恵は譲りたくない」という台詞こそが、これからの「べらぼう」において幕府サイドの重要なキーワードになると思われるのです。

意知暗殺事件後も衰えを見せない意次の権力

家治の言う「知恵は譲りたくない。」の「知恵」とは、何を指しているのでしょうか。彼は、父・家重の政治が持ちこたえたのは、田沼意次松平武元(石坂浩二)、大岡忠相という三人の存在があったからだとし、彼らを自分の「知恵袋」と語っています。

しかし、ドラマにおけるこの時点では、三人のうち健在なのは田沼意次ただ一人。したがって、「譲りたくない知恵袋」とは、意次その人を指していると考えて間違いないでしょう。

また、この時点とは、意次の子・意知(宮沢氷魚)が、1783年に若年寄に就任したという史実から見て、おそらく1780年頃と推定できます。

これ以後、意次は家治のもと「田沼時代」と呼ばれる政権を熟成させていきます。そのことは、意次の所領が1781年に1万石、1785年に1万石を加増され、最終的に5万7,000石に達したという史実からも裏付けられるのです。

しかし、このような状況に、松平定信(寺田心)、一橋治済(生田斗真)ら反田沼派は、さぞや忸怩たる思いであったことでしょう。

実はこの間の1784年、田沼意知が江戸城内で佐野政言(矢本悠馬)により暗殺されるという衝撃的な事件が起きます。

定説では、この事件を境にして、意次の権力は急速に衰退していくとされますが、実際にはその翌年にも意次は加増されており、さしたる権力の低下は見られません。

反田沼派の面々は、もはやこれ以上の猶予は許されないと感じたのではないでしょうか。

3ページ目 徳川家治の死は複雑に絡んだ政治的陰謀が原因?

 

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