狂人?人格破綻?度重なる狂気的乱行の末に自刃した徳川2代将軍・秀忠の息子「徳川忠長」の生涯【前編】
神君家康の孫、徳川2代将軍秀忠の息子として一時は将軍後継の最有力とまで目された「徳川忠長」。生まれながらに一流の血筋と絶大な権力を合わせ持ちながら、28年という短い生涯は自刃という形で幕を閉じた。忠長には生前多くの逸話が残っている。
今回は「駿河大納言・徳川忠長」の生涯をご紹介する。
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出生と将軍後継争い
忠長は1606年、江戸城西の丸に生まれる。幼名は「国千代」。母親は2代将軍秀忠の正室「江(ごう)」。秀忠と江の間には2年前に嫡男である「家光」が生まれていたが、家光は生来病弱であり吃音が認められたため、秀忠と江は弟の忠長を寵愛していたといわれている。
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幼少期の忠長は聡明で容姿端麗だったとされ、両親は将軍の後継にと意識していた可能性も否定できない。江が弟の忠長を溺愛した理由には、家光の乳母であった「春日局(かすがのつぼね)」との軋轢にあったと考えられている。2人の対立関係がそのまま家光と忠長の将軍後継争いに発展したという説もある。
将軍後継争いを巡っては、春日局が駿河にいる家康の元へ家光の将軍後継の承諾を得に赴いたという逸話が残っているが、それを裏付ける証拠はなく創作の域を出ない。
ただし、後継を決定する過程において何らかの形で家康の意向が働いた可能性は高いとされている。
甲府藩主へ
将軍の後継争いは家光が指名される形で決着した。1616年、忠長は甲府23万8000石を拝領し甲府藩主となる。忠長は一大名に列し、正式に将軍後継となった家光との立場の差は明確になった。
この時期の忠長について新井白石は自著である「藩翰譜(はんかんふ)」に以下のような記載を残している。
”1618年、12歳の折、忠長は自身が撃ち取った鴨で作られた汁物を父・秀忠に振舞った。秀忠は喜んだが、鴨が家光の居住地である西の丸の堀で捕らえられたものだと知った秀忠は、時期将軍である家光の居住区に鉄砲を撃ち込んだ忠長の行為に激怒した“
上述の記載は忠長が父・秀忠からの信頼を欠いた幼少期のエピソードとして取り上げられることが多いが、藩翰譜の成立は1702年であり、80年以上も後世に書かれた書物の信憑性には議論の余地が残る。
2ページ目 元服から「駿河大納言」へ 〜 母の死と家光との確執