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狂人?人格破綻?度重なる狂気的乱行の末に自刃した徳川2代将軍・秀忠の息子「徳川忠長」の生涯【前編】

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元服から「駿河大納言」へ

1620年元服。正式に「忠長」と名乗った。同年、織田信長の孫である織田信良の娘「昌子」と婚姻。昌子は当時わずか齢10であった。

1624年には甲斐に加え駿河・遠江を加増され55万石の領主となり、周囲の大名からは「駿河大納言」の名で形容されるようになる。

この頃の忠長には、知行に不服で、すでに大御所となっていた父・秀忠に「100万石」か「大阪城」を要求して呆れさせたという逸話が残っている。

しかし1626年に「権大納言」となってからは、後水尾天皇の二条行幸の上洛に随行し、父・秀忠の落胤(隠し子)で異母弟だった「保科正之」と面会、家康ゆかりの遺品を譲ったりと、政務に邁進している様子がうかがえる。

忠長の兄、徳川3代将軍徳川家光(Wikipediaより)

母の死と家光との確執

1626年、母である江が亡くなると、立場をわきまえない無自覚な行動が目立つようになったといわれている。

同年には父・秀忠と兄・家光の上洛に伴って、現在の静岡県を流れる大井川に幕府に無許可で橋を渡す。独断での施工に加え、大井川は江戸と駿府の防衛の役目を果たす要所であり、架橋はおろか渡し船も禁止されていたため家光の不興をかった。

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狂人?人格破綻?度重なる狂気的乱行の末に自刃した徳川2代将軍・秀忠の息子「徳川忠長」の生涯【後編】

神君家康の孫、徳川2代将軍秀忠の息子として一時は将軍後継の最有力とまで目されたものの、わずか28年の生涯を自刃という形で終えた「徳川忠長」。一流の血統の元に生まれながら、その人生は順風満帆とはいかな…
 

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