もはやレジェンド!戦国時代、弓を片手に93歳まで戦場を駆け抜けた老将・大島光義:2ページ目
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その後も天正元年(1573)の小谷城の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦いで戦功を挙げました。
実は光義は槍にも長けていました。斎藤家旧臣の武藤平弥兵衛から弓を馬鹿にされたことがきっかけで槍術を極めます。
このことにより、槍と弓を比較できたことで弓は大人数で戦う時に適しているとわかり、これ以後は弓を使用するようになりました。
90歳を越えても衰え知らず!
本能寺の変の際は安土城にいましたが、一揆勢と戦いながら妻子を連れて美濃国へ帰還しました。
そして、信長に仕えていた斎藤利尭に仕え、織田家家臣同士の所領争いに巻き込まれます。利尭と共に加治田・兼山の戦いで森長可と戦い、これに勝利しました。
その後は丹羽長秀に仕え、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いの戦功で8000石に加増されます。
賤ヶ岳の戦いで光義の活躍を見ていた豊臣秀吉にスカウトされ、豊臣秀次に仕えました。
秀次に仕えていた時、84歳だった光義は京都法観寺にある五重塔「八坂の塔」の窓に矢を10本射る偉業を成し遂げます。
その後は天正18年(1590)の小田原征伐、朝鮮出兵に出陣し、慶長3年(1598)には1万1,200石の大名となりました。
秀吉死後、93歳になった光義は徳川家康の元で会津征伐に赴きます。続く関ヶ原の戦いでは戦功を挙げ、1万8,000石にまで加増されました。
そして慶長9年(1604)、生涯53度の戦に臨んだ老将は97歳の長寿をもって亡くなりました。
最後に
光義を見ていると老いが理由なんてことは理由にならないと思ってしまいます。
光義は非常に遅咲きの花でしたが、それでも若者に負けるまいと功を競い合ったバイタリティーには尊敬の念を感じます。
ここまでくると光義が仙人の部類にいても可笑しくはないと考えてしまいますね。
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