運命を分けた関ヶ原!戦国時代の天下人・豊臣秀吉を支えた5人の大名「五大老」たちの明暗:4ページ目
上杉家
徳川家と対立して「西軍」に与した。戦後は家康と謁見し謝罪したことで藩の存続を許され、出羽国を中心に30万石の所領を与えられる。軍神と謳われた先代・上杉謙信が健在であった頃の所領は150万石ほどといわれており、結果的に景勝は一代で上杉家の領地を大幅に減少させてしまった。幕藩体制下では「米沢藩」として幕末まで存続した。
宇喜多家
備前国の当主であった宇喜多家。大名として最後の当主であった秀家は秀吉に育てられ、五大老にまで上り詰める。最盛期は58万石近くの所領を保持し宇喜多家の全盛期を築いたが、関ヶ原の戦いで徳川家に敗れ秀家自身は八丈島に流罪となり同地で生涯を閉じた。
1616年の改易によって大名としては滅亡したが、直系の血筋は現在も続いている。
豊臣から徳川へ
豊臣秀吉から信任を得て栄華を極めた五家であったが、結果的に宇喜多家は大名家として滅亡し、残りの三家は徳川家の傘下に入ることで決着をみた。
弱肉強食の時代とされる戦国にあって、滅亡していった大名家や武家は数知れない。これより約270年後に江戸幕府は滅亡する。
その際に主力として明治政府成立に尽力した藩が、関ヶ原で辛酸を舐めさせられた大名家であった事実には、大いなる歴史の流れを感じざるを得ない。