運命を分けた関ヶ原!戦国時代の天下人・豊臣秀吉を支えた5人の大名「五大老」たちの明暗
天下人・豊臣秀吉は自身の後継である秀頼が成人するまでの間、有力な五人の大名の合議制を採用して政権の安定を図った。徳川家康・宇喜多秀家・上杉景勝・前田利家・毛利輝元・小早川隆景(小早川は後に死亡したため省く)からなる側近は「五大老(ごたいろう」と呼ばれた。
豊臣政権下での活躍が目立った五大老であったが、秀吉の死後、その明暗は大きく別れることになる。
今回は五大老に任じられた五人の大名の運命をご紹介する。
五大老の序列
五大老が制度化された1598年、秀吉はすでに死の淵にあった。五大老に任命された五名の大名たちはいずれも高い権力を有していたが、中でも「徳川家康」は石高・官位共に頭ひとつ抜きんでており、五大老筆頭と目されていた。
家康に次いで存在感を示していたのは加賀を手中に収め、家康に次ぐ官位を持つ「前田利家」。利家は秀吉との関係性が強く、個人的な信頼を獲得していたといわれる。
残りの三名は官位が等しかったが、石高では中国地方を手中に収める「毛利輝元」と会津の「上杉景勝」が「宇喜多秀家」を圧倒したが、のちの関ヶ原に至る経緯をみると毛利輝元の地位が高かったように伺える。