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死者が100人を超える犠牲を生み出した昭和時代の「国鉄戦後五大事故」はなぜ起きてしまったのか?

死者が100人を超える犠牲を生み出した昭和時代の「国鉄戦後五大事故」はなぜ起きてしまったのか?

社会システムの機能不全

さて、紫雲丸事故が起きた1955年頃から、日本は経済成長率(実質)が年平均10パーセント前後の高い水準で続きます。高度経済成長期です。

そんな中、1962年に常磐線の三河島駅構内で起きた三河島事故は、比較的軽度な脱線・停止事故を起こした貨物列車に上り電車が突っ込み、160人が死亡する大惨事となりました。

また翌年の鶴見事故は、東海道本線の鶴見駅 ~新子安駅間で発生したもので、これも軽度な脱線事故を起こした貨物列車に横須賀線の電車が衝突、さらにその先頭車が、並行していた下り横須賀線電車と衝突して大惨事となった二重衝突事故です。161人が死亡しました。

いずれも、高度経済成長に伴う人や物品の輸送量の増加に安全対策が追い付かなかった結果発生したと言われています。線路上で異常事態が起きても緊急停止措置が間に合わないほど列車の運行ダイヤが過密状態にあったことから、過密ダイヤという言葉も流行しました。

こうした事故・災害は、社会システムが耐用年数を過ぎたり、機能不全を起こすことで発生します。すると不思議なことに、そうした機能不全状態を象徴するかのように、似たような事故が立て続けに起きることがあります。

上述の三河島事故・鶴見事故がまさにそうですし(両者は二年間で立て続けに起きています)、また先に紹介した洞爺丸事故・紫雲丸事故もそうです。

また、さらに時代が下ると航空機事故が連続して起きた時期もありましたし、1970年代には千日デパート火災・太洋デパート火災と、やはり100人以上が亡くなる大火災が連続発生しています。

そうした視点から、ご紹介したような国鉄五大事故やその他の事故・災害事例を調べてみると、それまで社会を支えてきたシステムが何だったのかが見えてくるかも知れません。

参考資料
事故災害研究室

 

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