全身から血を噴いて崩御…幕末期の孝明天皇の突然死で囁かれた「岩倉具視犯人説」を検証【前編】
幕末期のキーマン
江戸時代は、基本的に天皇家は政治の表舞台から引っ込んでいましたが、幕末期になって政局を左右する存在として目立つようになったのが孝明天皇です。
この、いわば幕末期のキーマンといえる孝明天皇の死因については、病死だったのか暗殺だったのか、研究者の間でもさまざまな見解があります。今回は彼の死因と、当時から噂されていた「岩倉具視(いわくらともみ)犯人説」について探っていきましょう。
「攘夷+公武合体」の政治思想
まずは当時の状況からおさらいします。
幕末期は、欧米列強の進出によって幕府の権威が揺らいだ時期ですが、当時、尊王思想に影響された武士らは天皇の権威をバックにして状況を打破することを考えていました。この時の天皇が孝明天皇です。
もともと彼は開国政策に対して懐疑的であり、外国人は追い払うべき(攘夷)だと考えていました。
開国を推し進めた井伊直弼とも対立関係にあったとよく言われています。実際には、むしろ幕府と手を組んで関係強化をはかりながら難局を乗り切る公武合体政策を推していたのですが、ともあれ尊王攘夷派の志士たちにとっては頼もしい存在だったと言えるでしょう。
さまざまなゴタゴタはあったものの、孝明天皇のもとで幕府と朝廷は結束を強くしていきました。
そんな中で、彼は急死します。公式には天然痘が原因だとされていますが、その最期の様子には不審な点が多々見受けられます。
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