まさに縁の下の力持ち!秀吉の弟・豊臣秀長の人柄がわかる功績やエピソード【どうする家康】:2ページ目
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豊臣政権の調整役として貢献した
秀吉が秀長を信頼していたことを代表する発言として「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候、いよいよ申し談ずべし(『大友家文書禄』より)」があげられます。
秀吉がこの言葉を言ったのは天正14年(1586)頃、大友宗麟が島津氏の圧迫に苦しめられた時でした。
ちなみに、意味は「内密なことは宗易(千利休)に、政治的なことは宰相(秀長)に、それぞれ相談せよ」となります。
この発言から、秀吉は秀長に大名たちの統制を任せていたことがわかります。温厚な性格の秀長を頼る大名は多く、秀吉へのとりなしを頼まれていました。
また、甥の羽柴秀次が小牧・長久手の戦いで失態を犯した際には紀州征伐と四国攻めに従軍させ、秀吉への信頼回復に尽力したことから大名だけではなく、親族にも頼りにされていたことがうかがえます。
最後に
秀長の死後、利休や秀次といった豊臣政権に関わる人物が秀吉によって命を落としていることから秀長が秀吉のブレーキ役だったことがわかります。
まさに秀長は豊臣政権における潤滑油の役割を担っていたといっても過言ではありません。それを裏付けるように、秀長死後には朝鮮の役の失敗や徳川家康の台頭で豊臣政権が一気に崩れていきました。
また、豊臣政権は秀長のような屋台骨が支えていたことがわかりますね。
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