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「どうする家康」ダーン!茶々(北川景子)に心を射抜かれた神の君(松本潤)は……第36回放送「於愛日記」振り返り:2ページ目
於愛(西郷局)の生涯を振り返る
女子 実は戸塚五郎大夫忠春が女、母は正勝が女、蓑笠之助正尚に養はれて義勝に嫁し、義勝戦死の後清員が養女となる。
天正六年三月浜松にめされ、東照宮につかへたてまつり西郷の局愛子と称す。是、台徳院及び薩摩守忠吉卿の母堂たり。十七年五月十九日逝す。年二十八。松誉貞樹龍泉寺と號す。駿府の龍泉寺に葬る。寛永五年従一位を贈られ、寶臺院の號を賜ふ。これより寺號をもあらためて寶臺院といふ。
※『寛政重脩諸家譜』巻三百六十九 清和源氏(支流)西郷
於愛は永禄5年(1562年)、戸塚忠春と西郷正勝の娘との間に誕生しました。
故あって蓑正尚(笠之助は通称)の養女に出され、西郷義勝と結婚。前述の一女一男を産んだとされます。
元亀2年(1571年)に夫の義勝が討死すると、娘に婿(西郷家員)をとって家督を継がせました。
……でも、あれ?『寛政重修諸家譜』の記述によると、夫の討死時点で於愛は10歳(満9歳)。結婚はともかくとして、この時点で2児の母というのは流石に無理がありそうです。
先程の子供たちを産んだのは、恐らく先妻ではないでしょうか。
それから天正6年(1578年)3月に17歳で家康の側室となりますが、家格の関係なのか夫の叔父・西郷清員の養女となっています。
家康とは仲睦まじく、天正7年(1579年)には長丸(後の徳川秀忠)、翌天正8年(1580年)には福松(後の松平忠吉)を産みました。
そして天正17年(1589年)5月19日に世を去ります。享年28歳。法号は松誉貞樹龍泉寺、駿府の龍泉寺に葬られました。
後の寛永5年(1628年)に従一位の位階と宝台院の法号を贈られると、これに合わせて寺の名称も宝台院と改められたということです。
近眼のため、盲目の人々に手厚く施したと言われ、彼女の死後は広く慕われたのでした。
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