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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 「どうする家康」どうした数正?出奔したその胸中は……第33回放送「裏切り者」振り返り

「どうする家康」どうした数正?出奔したその胸中は……第33回放送「裏切り者」振り返り

戦の発端を作っておきながら、勝手に和睦してしまった織田信雄(浜野謙太)。

徳川に臣従しておきながら、信州上田の地に叛旗を翻した真田昌幸(佐藤浩市)。

そしてどこまでも一緒だと誓いながら、あっさり寝返った石川数正(松重豊)。

今回は三人の「裏切り者」によってストーリーが彩られていましたね。

羽柴秀吉(ムロツヨシ)はまさかの関白就任、豊臣の姓まで賜わって、もはや天下統一も直前に迫ってきました。

果たして我らが神の君・徳川家康(松本潤)は、秀吉に膝を屈するしかないのか……それでは今週もNHK大河ドラマ「どうする家康」振り返っていきましょう!

一、人質に出された於義伊(於義丸)

……秀吉今は従三位の大納言にのぼり。武威ますます肩をならぶる者なし。浜松へ使を進らせて。信雄既に和平に及ぶうへは。秀吉 徳川殿に於てもとより怨をさしはさむ事なし。速に和平して永く好みを結ぶべければ。 君にも御上洛あらまほしき旨申入しかど。聞召入られたる御かへり言もなかりしかば。秀吉深く心をなやまし。又信雄につきて申こされしは。秀吉よはひはや知命にいたるといへども。いまだ家ゆづるべきおのこ子も候はず。あはれ 徳川殿御曹司のうち一人を申受て子となし一家の好をむすばゞ。天下の大慶此上あるべからずとこふ。 君も天下のためとあらんにはいかでいなむべきとて。於義丸と聞え給ひし二郎君をぞつかはさる。秀吉卿なのめならずよろこびかしづき。やがて首服加へて三河守秀康となのらしむ。……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十二年「秀吉養秀康」

以前、お万の方(松井玲奈)との間にもうけた男児・於義伊(おぎい。於義丸)が、すっかり大きくなっていました。

瀬名(有村架純。築山殿)の死後、母子ともに浜松城へ呼び戻したのですが、今こそ利用しない手はありません。

「いざ有事には、捨て殺しにして下さいませ」

健気にも家康へそう告げた於義伊とお万。しょせん武家の次男坊なんてそんな扱い……という事情は解りますが、あまりにも血が通っていないセリフに、怖気が否めません。

もう少し、母子の情愛を感じさせる演出(例えば口ではそう言っていても、本心では悲しんでいる)があってもよかったのではないでしようか。

また、このお万はかつて「男どもは争いばかり、女子(おなご)が政をすればよい」という主張をしていました。

それが腹を痛めて産んだ我が子を人質という政略の道具として差し出すことについて、葛藤はないのでしょうか(なきゃないで別に構わないのですが)。

ともあれ、養子という名の人質に出された於義伊。大坂では秀吉が大歓迎、秀の字をもらって羽柴秀康(はしば ひでやす)と名乗るのでした。

もしかしたら、ずっと冷遇され続けた浜松時代より、よほどいい思いをしていたかも知れませんね(父に捨て駒として送り出され、母と引き裂かれた心の傷はあるにせよ)。

羽柴秀吉の養子になった於義丸(結城秀康)。なぜ彼が選ばれた?【どうする家康】

小牧・長久手の戦い(天正12・1584年)で激闘を演じた羽柴秀吉(はしば ひでよし)と徳川家康(とくがわ いえやす)。合戦においては家康が優位に立ったものの、秀吉は老獪な政治力で家康の大義名分…

2ページ目 一、第一次上田合戦

 

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