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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 「どうする家康」絶体絶命の危機を乗り越え、神の君が無事に生還。第29回放送「伊賀を越えろ!」振り返り

「どうする家康」絶体絶命の危機を乗り越え、神の君が無事に生還。第29回放送「伊賀を越えろ!」振り返り:3ページ目

服部半蔵の父・服部半三保長

百地丹波に捕らわれてしまった半蔵が、何とか伊賀者のよしみで解放してもらおうと出した父・服部半三保長(はっとり はんぞうやすなが)の名前。

しかしさっぱり通じず、ずっと伊賀にいた服部某にも知らないと言われる始末でしたが、服部一族と伊賀国にはどのような関係があるのでしょうか。

『寛永系図』によると熯速日命(ほのはやひのみこと)の末裔で、允恭天皇の御代に織部司に任じられ、服部連(はとりべのむらじ)と称しました。

※熯速日命は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が妻を焼き殺してしまった我が子の加具土命(かぐつちのみこと)を斬り殺した剣から滴り落ちた血から化生した神。子に軍神・武御雷命(たけみかづちのみこと)がいます。

その子孫が伊賀国阿拝服部郷(三重県伊賀市)を領したのが服部一族と伊賀国のつながり(諸説あり)。以後、諸国へ遊仕(フリーランス的に勤務)したと伝わります。

聞くだけでも伊賀国との関係性は薄そうですね。それでは、半蔵の父・服部半三保長について『寛政重脩諸家譜』を確認しましょう。

●保長 半三 石見守 致仕號浄閑

保紹が呈譜及び松平隠岐守定直等が家臣の貞享呈譜に、正種に作る。

萬松院義晴に仕へ、安綱の刀をあたへらる。其後三河国に来り清康君、広忠卿、東照宮に歴任し、のち致仕す。某年岡崎にをいて死す。法名道可。

※『寛政重脩諸家譜』巻第千百六十八 服部氏 服部

【意訳】服部保長、通称は半三、自称官職は石見守。出家後は浄閑(じょうかん)と名乗った。別の史料には服部正種(まさたね)とも言う。

第12代室町将軍・足利義晴(あしかが よしはる。足利義昭の父)に仕え、褒美として安綱(やすつな)の銘刀を賜る。後に三河へ来て松平清康(きよやす。家康祖父)・松平広忠(演:飯田基祐)・そして東照宮(我らが神の君)三代に仕えた。

そしてある時、岡崎にて亡くなる。法名(戒名)は道可。

……とのこと。あまり伊賀の地に根づいていた印象は受けませんね。というか、家康にも仕えているのだから面識くらいあったでしょう。とツッコミたくなります。

4ページ目 服部半蔵は女大鼠を側室にした?

 

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