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三河一向一揆で名前しか出て来なかった「半之丞」こと蜂屋貞次。その後はどうなる?【どうする家康】

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武勲の数々、そして子孫は

以上が『東照宮御実紀附録』の伝える蜂屋半之丞の事績ですが、これだけでは彼が徳川十六神将として相応しいのか、ピンと来ませんね。

補足として『寛政重脩諸家譜』巻第二百九十四を見ると「所々の合戦にしばしば首級を得たり」とあります。

永禄3年(1560年)の桶狭間合戦では家康の丸根城攻めに突き従い、後に水野信元(演:寺島進)の軍勢を迎え撃って武功をあらわしました。

また永禄4年(1561年)にも石ヶ瀬で水野勢と戦って武勇を奮いますが、永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆では一揆側に寝返ります。

その後、帰参してより一層の忠義に励んだ半之丞。しかし永禄7年(1564年)5月に吉田城を攻めた際に本多忠勝(演:山田祐貴)と一番槍を競い、鉄砲疵が元で死んでしまったのでした。享年26歳(天文8・1539年生)。

さて、蜂屋の家督を継いだ源一郎は半之丞を襲名。天正12年(1584年)の小牧・長久手合戦において敵の首一級を獲る武勲を立てます。

しかし文禄元年(1593年)5月15日に33歳で亡くなってしまいました(永禄4・1561年)。

源一郎と娘の間には蜂屋可正(よしまさ。半之丞)・蜂屋可長(よしなが。半十郎、後に鳥居孫助)・女子を授かり、その血脈を次代へつなぎます。

【蜂屋家略系図】
蜂屋貞次=源一郎-可正-可逵(よしみち)-可英(よしひで)-可能(よしたふ)-可寛(よしひろ)-可敬(よしたか)-可利(よしとし)-可房(よしふさ)……

※『寛政重脩諸家譜』巻第二百九十四 清和源氏(頼光流)蜂屋より

大河ドラマには出て来ないでしょうが、家康の天下取りを支えた十六神将の一人として半之丞たちの活躍も知って頂けると嬉しいです。

※参考文献:

  • 『徳川實紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『寛政重脩諸家譜 第二輯』国立国会図書館デジタルコレクション
 

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