宗家の座を巡って徳川家康に敵対した、もう1つの松平家当主・松平昌久とは?【どうする家康】:2ページ目
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大草松平家のその後
昌久という当主を失い、三河一向一揆の敗北で大草城も失った大草松平家の者たちは、浪人となりました。そして、昌久のひ孫で大草松平家7代目当主である松平康安(まつだいら-やすやす)が若い時より松平信康(家康の嫡男)に仕えます。
鉄砲射撃を持ち味とした康安は、元亀3年(1572年)の二俣城の戦いでの初陣後、足軽大将として数々の戦いをくぐり抜けました。
信康切腹後は家康に仕え、天正18年(1590年)の小田原征伐では最初期の侍大将となります。
大草松平家、断絶
康安死後は、子の松平正朝が家康に孫にあたる徳川忠長に仕えました。しかし、忠長の改易に伴い、所領を没収。以後は水戸徳川家の徳川頼房の家老となります。子の9代目当主である松平正永も頼房の家老として仕えました。
ただ正永死後、跡継ぎ不在のために大草松平家は9代目で断絶しました。
最後に
安祥松平家との確執のため、家康に敵対した松平昌久。三河一向一揆で敵対したものの、敗北後に大草松平家を後にした無責任さは当主としていかがなものかと思います。しかし、親の代で失われた居城を一向一揆に便乗して取り戻そうと画策したのは、当主として誇りに思います。
そんな昌久が活躍する『どうする家康』が楽しみですね。
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