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女好きは兄譲り?三浦義村の弟・三浦平九郎胤義が起こした女性トラブル【鎌倉殿の13人】

女好きは兄譲り?三浦義村の弟・三浦平九郎胤義が起こした女性トラブル【鎌倉殿の13人】:2ページ目

文中に「……彼一族等遽馳候故也(かの一族ら、にわかに馳せ候ゆえなり)」とあるのは、もしかして平九郎に加勢するためではなく「何やってンだバカ、とっとと帰るぞ!」とみんなで連れ戻しに来たのかも知れません。

コント調に表現するなら、舞台袖から大きなハリセンを持って頭をひっぱたき、引きずりながら「お騒がせしましたー!」と退場するようなノリでしょうか。

ともあれ、鎌倉の街に再び静寂がもどって来たのでした。

終わりに

そんな三浦胤義ですが、やがて勃発した承久の乱(承久3・1221年)では朝廷方の総大将として奮闘します。

「天朝様(朝廷)にお味方すれば、兄者を日本国総追捕使(≒鎌倉殿)にしてくれるってよ!朝敵になった北条なんか見捨てて、一緒に戦おうぜ。なっ!」

しかし義村はこれに応じず、盟友である義時に書状を差し出すことで二心なき旨を誓いました。兄と決別した胤義は、有名な政子(演:小池栄子)の演説においても名指しで批判されています。

……皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍征罸朝敵。草創關東以降。云官位。云俸祿。其恩既高於山岳。深於溟渤。報謝之志淺乎。而今依逆臣之讒。被下非義綸旨。惜名之族。早討取秀康。胤義等。可全三代將軍遺跡。但欲參院中者。只今可申切者……

※『吾妻鏡』承久3年(1221年)5月19日条

【太字部意訳】名を惜しむ者は、早く藤原秀康(ふじわらの ひでやす)と三浦胤義を討ち取り、源家三代の開かれた鎌倉を守り抜きなさい!

決戦に敗れた胤義らは非業の死を遂げますが、『承久記(慈光寺本)』では最期に兄弟の再開を果たしました。しかし……。

胤義「……(前略)……今唯人ガマシク、アレニテ自害セント思ツレドモ、和殿ニ現参セントテ参テ候ナリ」
義村「シレ者ニカケ合テ無益ナリ」

【意訳】胤義「……最期に兄者の顔を見たくてやってきたのだ」義村「バカの相手は時間の無駄だ」

と見捨てられ、あえなく自刃。最期くらい優しい言葉をかけてやってもよさそうなものですが、さすがは「友をも食らう(※)」三浦の棟梁ですね。また義時の心証も気にしたのでしょう。

(※)建暦3年(1213年)5月2~3日に勃発した和田合戦(北条義時と和田義盛の決戦、和田一族滅亡)に際して、三浦義村は同族の義盛を裏切り、破滅に追い込んだことを言っています。先般の喧嘩で素早く引き上げたのも、そうした引け目から周囲とのトラブルを避けたかったのかも知れません。

さて、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではまだ登場していない(第34回放送時点)三浦胤義ですが、承久の乱におけるキーパーソンの一人ですから出てこないということはないはず。

果たして誰が演じるのか、そして女好きキャラなのか、これからの放送が楽しみですね!

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 7 頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 8 承久の乱』吉川弘文館、2010年4月
 

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