実は濡れ衣?バーサーカー 源義経、壇ノ浦の戦いで水夫を射ていなかった!【鎌倉殿の13人】:2ページ目
水夫を射殺し、斬っていたのは……
元暦二年三月大廿四日丁未。於長門國赤間關壇浦海上。源平相逢。各隔三町。艚向舟船。平家五百余艘分三手。以山峨兵藤次秀遠并松浦黨等爲大將軍。挑戰于源氏之將師。及午剋。平氏終敗傾。……(後略)
※『吾妻鏡』元暦2年(1185年)3月24日条
長門国の壇ノ浦で源平両軍が三町(約327メートル)ほどの距離で対峙していました。平家方は500艘の軍船を三舞台に分け、山鹿秀遠(やまが ひでとお)と松浦党(まつらとう。個人名ではなく水軍衆)らを大将軍として源氏に戦いを挑みます。合戦は午剋(うまのこく。正午ごろ)に及び、ついに平家の敗北が決定的となりました。
……背後の陸地(九州)は源範頼(のりより)が制圧しているため、もう逃げ場はありません。『吾妻鏡』では、このあと観念した平家の者たちが次々に入水自殺を遂げる情景が描かれています。
が、義経が水夫を射るように命じた記録はありません。そもそも戦闘の記述自体がごくあっさりですね。
一方の『平家物語』では戦闘の様子が詳しく描写されているものの(原文は長すぎるため割愛)、やはり義経が水夫を射るよう命じては(あるいは自ら射ても)いないようです。
『平家物語』を元に書いたとされる『源平盛衰記』なども同様ですが、それなら義経が水夫を射たor射させたという記述はどこから生まれたのでしょうか。
どうやら、壇ノ浦での戦闘中に水夫らが射られたこと自体は『平家物語』などに記述があり、これを元に想像をふくらませたものと考えられます。
源氏の兵共、既に平家の舟に乗り移りければ、水手梶取共、射殺され、斬り殺されて、舟を直すに及ばず、舟底に倒れ伏しにけり。……(後略)
※『平家物語』巻第十一「先帝身投」より
源氏の兵(つわもの)どもが平家の軍船に乗り込んでいるので、水手(かこ。漕ぎ手)や梶取(かんどり。操船手)らが殺されて態勢を立て直せない……義経が命じるまでもなく、射るなり斬るなり手当たり次第に殺していたことがわかりますね。
逆に考えれば、源氏の兵たちが乗り込むまではあえて遠くから射殺すようなことはしていなかった、とも言えるでしょう。
(もちろん、お互いに矢は散々に射ているため、それが水夫に当たってしまうことはあったでしょうが)
終わりに
一ノ谷合戦における鵯越の逆落としや、屋島の合戦における奇襲(暴風雨に出航して平家の隙を衝く)など、常識を覆す戦術で数々の伝説を生み出した義経。
だからこそ「アイツならやりかねない」という先入観があらぬ方向へ膨らんで、あえて非戦闘員を狙い撃ちにするような卑怯さも創作されたのでしょう。
もっとも、当の義経はどこ吹く風で「伝説なんて、良くも悪くもそうやって作られていくモンだから」と高笑いしていそうですがね。
※参考文献:
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 2平氏滅亡』吉川弘文館、2008年3月
- 佐藤謙三 校註『平家物語 下巻』角川ソフィア文庫、1959年9月