縄文時代はなんと一万年以上もあった!(6)後期・ストーンサークルの巨大祭祀共同墓地への変容
前回は気候的な気温の降下の始まり、抜歯の風習の誕生や、多数の土偶が作られるようになったこと、土器の形も大きく変化していき“火焔型土器”誕生してきたことなどをご紹介しました。
今回は縄文時代・後期についてご紹介していきます。
前回の記事縄文時代はなんと一万年以上もあった!(5)中期・呪術的な道具が作られ火焔式土器も誕生
縄文時代・後期(紀元前2,000年~1,000年頃)
気候としては気温の下降がまだ続いていたと考えられています。
気温が低下していくということは、今まで狩猟していた動物や、採集していた木の実などの生態系が少しずつ変わっていくということです。
人々の生活も徐々に厳しいものになっていったと考えられます。
土器は東日本では共通の文様が付けられるようになります。そして土器の厚さがだんだんと薄くなっていくのが特徴的です。
ストーンサークルが多くの地域に広まる
北海道と北東北を中心に環状列石(ストーンサークル)がさかんに作られるようになります。
秋田県鹿角市十和田大湯にある「大湯環状列石」は、縄文時代後期の最大級の配石遺跡・ストーンサークルです。
河原石を菱形や円形に並べた組石の集合体が、外帯と内帯の二重の同心円状に配置されている配石遺構となっています。
また配石遺構の下には楕円形の穴が掘られ、そこに遺体を埋めるという当時としては一般的な“土坑墓”が見つかったことから、大規模な共同墓地と考えられています。
その周辺調査から“掘立柱建物”が周りに建ち並んでいたと考えられ、これらは墓地の葬送儀礼に関する施設ではないかと推測されています。
後期以降、集団墓が環状列石(ストーンサークル)という視覚的効果を伴った、巨大な祭祀共同墓地として広まっていった背景には、各集落に大規模な土木工事や祭祀を運営する「指導力」または「威信」というような存在があったと思われます。
この頃、縄文時代の社会階層化が生じる構造変化があったのではないかという説があるのは注目すべき点ではないでしょうか。