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20,000対763名!戦国武将・高橋紹運が魅せた武士の心意気と壮絶な最期【上】

20,000対763名!戦国武将・高橋紹運が魅せた武士の心意気と壮絶な最期【上】:2ページ目

26倍以上の兵力差を半月も耐え抜く

「御屋形様」

「何じゃ」

すっかり戦闘配備を終えた紹運に、家臣の一人が進言します。

「ここは守りに難うございますれば、今からでも宝満山(ほうまんざん)へ移られては……」

実はこの岩屋城、高橋家の本拠地である宝満山城の出城であり、守るには不向きな立地となっていました。

「ならぬ。あちらへは、女子供と老人を移しておいた。それを守るためにこそ、我らはここで戦うのじゃ」

「……御屋形様が左様お覚悟なれば、我らもお供仕る」

古来「城攻めには籠城する兵の十倍を要する」と言うものの、紹運率いる岩屋城の軍勢763名に対して、攻め寄せる島津の軍勢はおよそ2万。26倍以上の兵力差ともなれば、勝負は一瞬でついてしまうでしょう。

事実、島津の大将・島津忠長(ただなが。義久の従弟)は一日で攻略できると思っていたようですが、いざ合戦が始まるとこれが大苦戦。

およそ半月にもわたる戦闘で甚大な被害を出し、攻めあぐねた忠長は3度(※)にわたって降伏勧告を出しました。

(※)これに加えて、味方からも2回「城を捨てて撤退すべし」との旨で勧告を受けていますが、紹運はそれも丁重に断っています。

「貴殿ほどの傑物が、何ゆえ耶蘇の邪教(キリスト教)に狂って人心を惑わす大逆非道の大友に与(くみ)されるのか。もはや貴殿の将器は十二分に証明された。我が島津家へ参れば、手厚く報いようぞ!」

忠長の呼びかけに対して、紹運はこう答えました。

【下編はこちらから】

※参考文献:
桐野作人『歴史群像デジタルアーカイブス <島津と筑前侵攻戦>壮絶!岩屋城 高橋紹雲の抵抗』学研、2015年3月
小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論第一部 巨傑誕生篇』小学館、2014年1月
吉永正春『九州戦国の武将たち』海鳥社、2000年11月

 

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