明智光秀は本能寺の現場にいなかった?「実行犯は重臣たち」古文書を解読:2ページ目
光秀は、焼け落ちる本能寺を見ていなかった?
その根拠となる史料は江戸時代前期に加賀藩の兵学者・関屋政春(せきや まさはる。元和元・1615年生~貞享2・1686年没)が著した『乙夜之書物(いつやのかきもの)』。
※乙夜とはおおむね現代の21:00~24:00を指し「寝る前のリラックスタイム」の意。きっとそんな気分で昔のことなどを書き留めたのでしょう。
加賀藩に関する史料として注目されてきた史料を、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員が読み解いたということです。
史料では、本能寺の変について信長を襲撃した光秀の重臣・斎藤利三(さいとう としみつ)の三男で、自らも参戦した斎藤利宗(としむね。数え16歳)が、甥に当たる井上清左衛門(いのうえ せいざゑもん。加賀藩士)に語ったという内容が記録されています。
さて、利宗の語るところによれば、本能寺へは斎藤利三と同じく光秀の重臣である明智秀満(あけち ひでみつ)が先発隊2,000余騎を率いて急襲し、光秀自身は約8km南方の鳥羽で待機していたそうです。
確かに、いくら信長の身辺が手薄そうに見えても、実は罠や伏兵が仕掛けられていないとも限りませんし、大将自身が軽々に突撃せず、信頼できる重臣を先鋒に派遣する判断は理に適っていると言えるでしょう。
ちなみに、光秀が本能寺の現場にいたとする根拠は、光秀と親しかった公家の吉田兼見(よしだ かねみ)の日記などにある
「惟任日向守(これとう ひゅうがのかみ。光秀)、信長之屋敷本応寺(本能寺)へ取懸(とりかかり。攻め込み)……」
と言った記述ですが、兼見本人が現場にいた可能性は低く、周囲の噂(※例えば「明智の軍勢が攻め込んだ」など)を聞いて「明智の軍勢と言うなら、光秀が率いているに違いない」と思い込んだ可能性もあります。
終わりに
「うぅむ……内蔵助(くらのすけ。利三)らはまだ落とせぬか!」
「殿、落ち着かれませ……あっ、寺より火の手が上がっておりまする!」
「おぉ!でかした……!」
もしかすると光秀本人から見た「本能寺の変」はこんな感じだったのかも知れず、今後ドラマなどの描写が、大きく変わってくるかも知れませんね。
今後、史料の精査による真相の解明が期待されます。
※参考:
明智光秀は本能寺に行かなかった?家臣が実行、古文書に:朝日新聞デジタル