家督が継げなきゃ自力で家を興す!関ヶ原で活躍した信長の甥・織田長孝の武勇伝【下】:2ページ目
槍の刃が家康の指を傷つけ、僅かな血を吸って地面に転がると、家康は逆上して問い質します。
「この槍は尋常ならざるもの……さては村正(むらまさ)ではなかろうな!」
質された父は「は。いかにも村正にございますれば」と答えると、源二郎ともども退出を命じられました。
(いやはや、勘気を召されたか……しかし、当方に落ち度なき事なれば、致し方あるまい)
そんな二人の元へ、近習の一人がやって来て「徳川家に代々仇をなす妖刀村正の因縁」について説明されます。
※詳しくはコチラ
天下人・家康も恐れをなした!?妖刀「村正」と徳川家にまつわる因縁とは
「左様であったか……なれば今後(処世)の障りとなろうゆえ、斯様の槍は打ち砕くべし!」
かくして源二郎と共に修羅場を潜り抜けた村正の名槍は、無残にも屑鉄とされてしまったのでした。
エピローグ
そんなアクシデントはあったものの、武功は武功。いくら仲良しであっても敵は敵、その仲良しを討った者であっても味方は味方……と、私情を超えて評価できるのが、家康のいいところ。
源二郎は関ヶ原の武功によって所領を大きく加増され、一万石どりの大名(美濃野村藩初代藩主)に出世。完全に父からの独立を果たしたのでした。
しかし、半右衛門との死闘で傷でも負ってしまっていたのか、関ヶ原の合戦から6年後の慶長十一1606年7月5日に亡くなってしまいました。享年は26~34歳(※天正元1573~同九1581年生まれと仮定)と推測されます。
野村藩は長男の織田孫一郎長則(まごいちろう ながのり)が継承、徳川秀忠(ひでただ。江戸幕府第2代将軍)や徳川家光(いえみつ。第3代将軍)に仕えますが、子供がいないまま寛永八1631年7月4日に亡くなったため、無嗣改易(※)となってしまいました。
(※)むしかいえき。江戸時代、徳川幕府は後継ぎのいない藩は領地を没収。死ぬ直前に養子をとることも認めていませんでした。
しかし、次男・織田織部長政(おだ おりべ ながまさ)は加賀藩に仕官し、末子の長家(ながいえ)も加賀藩士・村井長次(むらい ながつぐ)の養子となってそれぞれ活躍します。
信長以降、歴史の表舞台からフェイドアウトしていくイメージの強い織田家ですが、源二郎をはじめ多くの織田たちがその後も活躍し、興味深いエピソードを残しているので、興味を持って調べてみると面白いですよ。
【完】
※参考文献:
桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年1月
戦国人名辞典編集委員会 編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2005年12月
家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典』新人物往来社、1987年11月