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踏みにじられた貞操…戊辰戦争で活躍するも、敵の手に落ちた神保雪子の悲劇【下】

踏みにじられた貞操…戊辰戦争で活躍するも、敵の手に落ちた神保雪子の悲劇【下】

敵に捕らわれ、貞操を踏みにじられた悲劇の最期

さて、会津若松城下の戦闘は文字通り女子供までもが抵抗した激しいものであり、乱戦の中で中野竹子は被弾して討死、雪子は新政府軍の大垣(おおがき)藩兵に捕らわれてしまいました。

「くっ……殺しなさい!」

占領された長命寺(ちょうめいじ。現:会津若松市)に拘束された雪子は、潔く自刃させるよう求めましたが、敗軍の女性にそんなことをさせたら「もったいない」と考えるのが戦場の常識。

「……俺たちが『楽しんだ』後にな……」

8月25日、会津若松での戦況を視察した土佐藩士の吉松速之助(よしまつ はやのすけ)は、散々になぶられ、ボロボロにされた雪子の姿を憐れみ、大垣藩に対して釈放を要請します。

「賊軍とは言え、婦女に対してかかる凌辱を許せば、新政府に対する人々の支持が得られないばかりか、残る賊徒の闘志を煽ることにもなりかねない。即刻釈放、あるいはせめて自決を促すべし!」

しかし、大垣藩は「よそ者の指図は受けぬ(≒本音:まだ楽しみ足りない)」として要請を拒絶。

(もしかしたら、雪子が女性ながらに大立ち回りを演じて武勇を発揮し、大垣藩も多数の犠牲を出してしまった恨みがあったのかも知れません)

許しがたい事ではあるが、新政府軍同士でのもめ事は避けたいし、無理やり助け出そうにも多勢に無勢。第一、そこまでのリスクを冒す義理もありません。

「……やむを得まい」

速之助は、再び雪子の元へ戻って脇差を貸し与えます。

「……忝(かたじけの)う存じます……」

慶応四1868年8月25日、雪子は獄中に自刃。愛する夫の後を追ったのでした。享年24歳。

エピローグ

かくして多大な犠牲を払った悲劇の末に成し遂げられた明治維新。日本国の未来を案じて一致協力を訴えた神保修理の正しさは証明されたものの、会津藩は永らく「朝敵」「賊軍」の汚名に甘んじさせられたのでした。

たとえ命を落としてでも、広く公益に供する視点に立って、正しいと信じたことをどこまでも訴え続けた愚直な心意気は、雪子はもちろん、現代に生きる私たちの胸も強く打ち続けることでしょう。

【完】

※参考文献:
阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち』歴史春秋社、2010年1月
中村彰彦『幕末会津の女たち、男たち 山本八重よ銃をとれ』文藝春秋、2012年11月
宮崎十三八・安岡昭男『幕末維新人名事典』新人物往来社、1994年1月

 

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