実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【完】:3ページ目
エピローグ・受け継がれる尊皇報国の志
それにしても、芹沢がただ斬り殺されているだけなのに対して、五郎の死体が斬首されているのは異常に感じられます。
わざわざ首を斬り落としたいほどに憎まれていたのか、あるいはよっぽど(何度刺しても斬っても)死ななかったのか、もし後者だとするなら、芹沢を守りたい執念がそうさせたのかも知れません。
「先生……七生報国(※)の教え……必ず、守ります……」
(※しちしょうほうこく。七度生まれ変わっても国に報いる=奉公する精神)
翌朝、何食わぬ顔で帰ってきた近藤勇らは屯所の惨状にわざとらしく驚き、芹沢の死を大げさに嘆き悲しみました。
「これは長州藩の仕業に違いない!そうに決まっている!(棒)」
「尽忠報国の士である芹沢先生のご遺志を、我々が引き継ごうではないか!(棒)」
かくして文久三1863年9月18日、芹沢と五郎の葬儀が盛大に執り行われ、壬生寺(現:京都府京都市)に葬られました。
かくして新選組における水戸派は壊滅、ただ一人残った野口健司(のぐち けんじ)も同年12月27日に切腹させられ、新選組は試衛館派に完全掌握されたのでした。
芹沢の尊皇思想に感銘を受けながら、同志であった筈の試衛館派との権力争いに命を落とした五郎たちの無念が、その志を受け継ぐ者たちによって、正しく晴らされることを願います。
【完】
※参考文献:
永倉新八『新撰組顛末記』新人物往来社、2009年
箱根紀千也『新選組 水府派の史実捜査―芹澤鴨・新見錦・平間重助』ブイツーソリューション、2016年
流泉小史『新選組剣豪秘話』新人物往来社、1973年